今まで、わたしは劣等感を抱いて生きてきた。”ふつう”になりたいと、他の女の子と比べては、どうせ自分は無理だと思い込んでいた。幼少期からこびりついて離れない自殺願望や、自己肯定感の低い自分を見つめ乗り越えてきたこと。寂しさを埋めるように愛を求めた、取り返しのつかない残酷な過去。
自分を変えたくて、自分を愛せるようになりたくて、本を読んだり、必死に感情を紙にも書いた。そして、自分を親友のように扱えるようにと毎日心掛けては、行動に移した。
その全てが、今に活きている。子どもたちが抱えるドロドロとした生々しい感情を、キリキリと痛いほどに生きたいと叫ぶ声を、受け止められる。
“なんだ。自分がしてきた経験って、宝物じゃん。”
胸に光る、経験という名の宝物。あんな辛いことがあったから、こんな苦しい思いをしたから、「わかるよ。その気持ち。」その一言で昔のわたしと同じような子どもたちの心に寄り添えるのだから。
だからこそ、「自分の活動は、良いことをしている」という感覚が全くない。
「死んでやる!リストカットしてやる!」と、この世を呪うかのような目で睨みつけ、苦しみながら必死に生きている子どもたち。その姿を、きっとこの経験が、今はそれがわからなくても気づかなくても、この子の人生の糧になるんだなと思いながら見守っている。正論や正しさは、子どもたちの目に映る世界を少しも柔らかくはしてくれないことを、知っているから。
自分で抜け出し、乗り越えるその日まで、みんな、必要な経験をしているだけなんだ。それでも、その過程は死にたくなるほどに辛い。だから、わたしは子どもたちに「辛いなら寄りかかりなよ」と声をかける。
“大丈夫。わかるよ、辛いよね。手首切るくらいに、一生懸命生きてる証拠だよ、よく頑張ってるね”
どんな経験も、宝物になると知っているから。人の辛さを受け止めることができる自分になるために、必要な出来事だから。その日まで、見守りたい。
子どもが欲しい言葉は、ただひとつ。「失敗しても大丈夫。ダメでも大丈夫。ありのままのあなたを愛しているよ。」ただそれだけなのだ。
どんな自分でも、自分は愛されるべき存在だと思えることが、その後の人生をどれほど生きやすくするか。愛情をもって子どもを育てられる親をひとりでも増やせるように。これからは、親の教育にも力を入れていきたい。
わたしのきっかけを、また誰かのきっかけに、繋げられるように。
これが、わたしのKeyPage…。