“お誕生日、おめでとう”
家族みんなから温かく祝ってもらった「最後の誕生日」。わたしはまだ、4歳だった。
水商売をしている母は、家を空けることが多かった。父が仕事から帰ってくるとバタバタと玄関に走っていき、寂しさを埋めるように「おかえりー!」と抱きつく。
ところが、そんな日常は、ある夜を境にガラガラと音を立てて崩れた。
「ガッシャーン」
鏡が割れる音にびっくりし、目が覚める。
幼いわたしの瞳が捉えたのは、床に倒れている母とその横で立ちすくむ父の姿。
床に散らばった大量のガラスの残骸に、“ああ、きっとパパがママにやったんだな。”
そう思った。
それからは突然の風が吹いたように、あっという間に家族は離れ離れに。
“ばいばい”
わたしに手を振る母。
“どうしてわたしに手を振るの?”
両親の離婚はあまりに突然、わたしの日常に降りかかった。車に乗せ連れてこられたのは、祖父の家だった。
あまりのボロアパートに、息をのむ。いくつもの靴が散乱している狭い玄関。せんべい布団がひかれた四畳半一間の畳部屋。
部屋の奥から出迎えてくれたのは、酒の匂いがする祖父だった。
”はじめまして!おじいちゃん!”
にっこりと、無邪気にご挨拶。
でも、そんな笑顔は、ろうそくに勢いよくふっと息を吹きかけたように一瞬にして消されてしまった。
”お父さんと呼べ!”
なぜ怒鳴り散らされたのかわからない……。混乱するわたしを置いて祖父はどこかへ行ってしまった。祖父とふたり、ボロアパートでの生活が始まった。
祖父はよく怒鳴り、たまにわたしを叩いた。
わたしは、あっという間に近所で噂をされるようになる。
“幼稚園にも行かずボロアパートに住んでいる小さい子がいる”
小学校に上がると自分の惨めさはより浮き彫りになった。クラスメイトの家に遊びに行けば、大きな一戸建ての家や綺麗なマンションばかり。家族みんなでご飯を食べる日常や、美味しそうなおやつ。自分の部屋を自慢げに見せる友達が羨ましかった。
惨めで居場所のない寂しさがわたしの心に、ぽつんと何かが落ちる。
「劣等感」と名のつく影が、幼い心に深く植え付けられた瞬間だった。
祖父に預けられた2年が過ぎ、母が部屋を借りて迎えに来てくれた。それからは、母と曽祖母と3人で暮らすことに。
引き取られたのはいいものの、母は相変わらず、夜の仕事で家にいなかった。優しい曽祖母も、ふらりパチンコに行ったきり深夜まで帰ってこない。カップラーメンをずるずるとすする寂しいひとりの夜をいくつもやり過ごさなければならなかった。
ある日の昼間。
疲れ切った様子で床に転がる母のとなりで、うっかりテレビのリモコンを押してしまった。静かな部屋に流れ出す雑音。それをかき消すような怒鳴り声とステリックな叫び声が響きわたった。
”あんたなんか、産まなきゃよかった!”
不機嫌な母が感情に任せて放った言葉は、矢のように鋭くとがった凶器となり、わたしの心にぐさりと刺さる。血が滲む。見えない痛み。
その瞬間、なにかが「ぷつり」と切れた。
“死にたい……”
胸の奥底から勢いよく溢れ出た感情は、そのままわたしを飲み込んだ。
次の瞬間、幼い小さな手が精一杯握りしめたのは、包丁だった。
”死にたい。でも、切れない……。”
一生懸命手首にあてる。小学校3年生。はじめてのリストカットだった。
中学生になると、不良の子とつるんで、タバコや万引きをはじめた。
”人生やってらんないよね”
常に渦巻いていたモヤモヤとした感情は、高校生になっても晴れなかった。
同級生が無邪気にはしゃぐ姿を横目に、ぼやり上の空。
みんなと「同じ」、儚く眩しい制服を着ているのに、みんなとは「違う」自分。生まれ落ちたこの世界を呪うように過ごす。心は荒み、鬱々とした日々が続いた。
ある学校帰り道、電車に乗ってどこかへ行ってみたくなった。
ビルのある街を抜け、日常から遠ざかっていく電車。ばっと一瞬、眩しい光に包まれた景色に心を奪われた。
“うみ……海だ。”
海のある街で生まれたことを、思い出す。まだ、両親がいた頃の記憶。
”死ぬなら、この海がいいなぁ。”
その日を境に、学校へは行かず、海を見に電車に乗ることが増えた。
車窓から海を眺め、いつものように「死にたい」の4文字を心で呟く。
母は、わたしが学校に行っていないことがわかると、不機嫌な感情に任せてヒステリックに怒った。
「この金食い虫!!!!」
初めて母に反抗する私 “じゃあ、高校なんて辞めてやるよ!”
お金のかからない公立に行ったのに、なんでそんなこと言われないといけないの?!と心の中で叫んでいた。
反抗期を迎え、勢いで放った自分の言葉に後戻りできず、わたしはあっけなく「みんなと同じ」制服を脱ぐことになった。
高校を辞めたあとは、友達に誘われキャバクラやクラブで働いた。
それでも朝日が眩しい日は、制服を着た女子高生を羨ましく見つめた。片隅にはいつもある、「ふつう」の高校生活を送りたかった自分。
“ふつうな生活ができない自分は、死んだほうがいいんだ。”
幼少期からまとわりついて離れない、自殺願望。
現実から逃げたくて、逃げたくて。不良友達とシンナーを吸った。
昼はパチンコへ行き、夜はキャバクラやクラブで働く。明け方まで彼氏とラブホでシンナーを吸う廃人のような日々。
いくらシンナーを吸っても、ドロドロとした自己嫌悪から逃れることはできなかった。
“もう、しんどい。”
家じゅうの薬をありったけ飲んだ。意識がもうろうとしてきたところに、ガチャリとドアが開く音。帰ってきた曽祖母の姿が瞳の奥に、ぼんやり映る。
目が覚めると、そこは病院のベッドだった。
“うっ……”
1分置きに襲われる嘔吐。あまりの辛さにもがくわたしを見て、ある看護師さんが足を止めた。
“人ってね、簡単に死ねないんだよ。”
まっすぐな眼差しが語りかける。心に響く、優しい痛み。
“ああ。だから生きなさいって言われてるんだ。”
それでも、退院して現実が変わったわけでも、自分が変わったわけでもない。
寂しい日常に負け、また薬に手を染めてしまう。
その日も、友達に部屋に招かれいつものようにシンナーを吸っていた。
だんだんと意識がもうろうとしてくる中、パッと目を開ける。なんと、男が、わたしの上に跨っていた。声を出して助けを呼ぼうとしても、身体も動かなければ、シンナーを吸っているせいで呂律もまわらない。
“や…めて……。”
そのままレイプをされる自分が、悲しかった。
“ああ、わたし友達にはめられたんだ。こんな目に遭ってまで、何をやってるんだろう……。”
その日から、一切の薬物をやめた。きっぱりと、やめた。
代わりに手にしたのは、求人広告の雑誌だった。
“「ふつう」になりたい。”
そう強く願ったわたしは、初めて昼間の仕事に就くことにした。
鏡の前に映るのは、黒い髪の清楚な自分。初めて仲の良い友達もできた。人生で初めて「楽しい」と思える日々に巡り合うことができたのだった。