「どんなに才能がなくても、死ぬほど努力して死ぬほど頭を使って工夫すれば、日本で5本の指くらいになれる」
相川さんは、そういった。その言葉が、今でもぼくを支えている。
ぼくの両親は教師で、ぼくも教師になりたいと思ったのは、自然なことだった。
宮城県の教育系の大学に進み、塾でバイトを始めた。そこで出会ったのが相川さんだ。彼はカリスマ塾講師だったが、かつては実業団でバレーボールの選手をしており、オリンピック選手とも渡り合うほどの実力者だった。
身長が高いとは言えない相川さんがそこまでのレベルになったのは、猛練習のおかげだった。彼は専属のトレーナーを雇って、毎日死ぬほど練習した。練習が終わるのは気を失うときだったらしい。
そんなレベルで鍛えていたら、5,6秒先が見える境地に達したそうだ。こうなれば、もう敵なんかいなくなる。
実業団で活躍していたが、選手生命は唐突に終わりを告げる。練習のし過ぎで心臓に負担がかかり、これ以上続けたら本当に死ぬというところまでいったのだ。その話を聞いたとき、足の件と重なる部分があり、他人事とは思えなかった。
バレーボールを断念した相川さんは、テレビのディレクターになった。当時のテレビ局は、倍率が千倍にもなるような超難関だった。
どうやったら採用されるかと考えた結果、相川さんは子会社の子会社みたいなところにバイトで入社した。そこの社長に、ひたすら企画書を出しまくった結果、一つだけ番組になった企画があった。それが「何でも鑑定団」だ。
「何でも鑑定団を作ったのはぼくです」という触れ込みで大手の採用試験を受けたところ、一発で合格した。これらの経験から、相川さんは「努力をするのは大切だが、する方向を考えるのが重要」と学んだ。
相川さんはディレクターとして活躍していたが、ある日先輩にこう言われた。
「女の裸には勝てないんだよ」
規制がゆるく、アイドルのぽろりがある水泳大会などがテレビでやってた時代だ。どんないい番組を作っても女の裸には勝てないと悟り、すぐに辞表を出した。その後はなぜか教育業界に入り、すぐに仙台一のカリスマ塾講師になったのだ。
彼の話を聞いていて、ぼくも彼のようになりたいと思った。何か一つのことで抜きん出なければいけない。そう思ったとき、高校時代に打ち込んだ合唱のことを思い出した。ぼくはシンガーになろうと決めた。
すぐにアカペラグループを作り、活動を始めた。教師になるために必死で通っていた大学に行かなくなり、歌ひとすじの学生生活になった。両親にも教師にはならないと告げ、音楽に打ち込んでいた。
自分の声を録音して聞いてみたところ、だみ声で気持ち悪かった。今までそんなことは気にしてなかったのに、初めて声にコンプレックスを抱いたのだ。それをきっかけに、声を変える研究をした。時間はかかったが、声を変えることはできた。これが、今の活動の原点になっている。
ぼくは前向きな性格で、どんな困難でもなんとなく乗り越えてしまう。そのルーツは、幼稚園時代にある。
「今日は、やってやる」
ぼくはそう決意した。
幼稚園の時、ぼくはいじめられっこだった。いつも殴ってくるやつがいて、そいつには叶わなかった。毎朝登園するのが憂鬱だった。
ある日、「来るなら来い」という気分になった。彼がやってきたところをぶん殴ってやった。パンチはクリーンヒットして、相手は号泣した。ぼくも泣いていて、取っ組み合いのけんかになった。激闘の末、ぼくは勝利したのだ。
それから、ぼくは園内で強気になった。あのできごとがなかったら、今でも弱虫のままだったかもしれない。