家計がますます傾いたことで、おじいちゃんの建ててくれた家は少し前に売って、一家でマンションに越していた。
とはいえ通学に時間のかかることには変わりなくて。
地元の近い友人が同じクラスにいる。やんちゃで、話を盛ることも多い奴だ。
彼とは高校に入ってから知り合ったものの、通学なんかでいっしょになることがある。
高3の1月という時期も時期、どちらからともなく進路の話になった。
「ファッションの専門に行くつもりだったけどローンが降りなかったんだ。1年バイトして、来年行こうと思う」
「そうなのか。あといくら足んないの? 」
「60万ぐらいかな」
「そうか……。その金、貸してやれるかもしれないけど」
いつもの癖だと思った。カッコつけようとして背伸びした事を言ってしまう、いつもの癖だと。
悪い奴じゃない。おれだって大好きだ。
だけど、彼のその癖はクラス中周知の事実。真に受けるつもりはなかった。
そもそも彼の家だって裕福なわけじゃない。
貸すというそのお金も、親父さんが亡くなって受け取った保険金だという。
「俺は、大学で何がやりたいってのがあるわけじゃないんだよ。
俺が大学に行きたい気持ちより、お前が専門に行きたい気持ちのほうが強いだろ」
おれが借りたら、彼は大学には行けなくなる。
そんなお金を受け取ってまで、おれは服飾の勉強がしたいんだろうか。
その場で頷くことはできなかった。
申し出に感謝して、気持ちには感謝して……だけど、受け取るとは言えなかった。
その後、担任と話す機会があった。
「1年バイトして来年受けるつもりです。ただ、友達が貸してくれるかもしれないって話もあって……いや、わかんないですけど」
「江連、それは、借りてでも何してでも今年必ず行くべきだ」
ハッとして顔を上げた。真剣な目をした担任と視線が合う。
「いまのお前の環境で、1年バイトして、進学したい、勉強したいっていう気持ちを保つのは難しい。
今年行かないと、ダメになるぞ」
家庭事情も鑑みた担任の言葉。
同級生に金を借りてでも進学しろ、なんて、教師として普通じゃないかもしれないけど。
「1年バイトして、もし途中で気持ちがくじけたら。
自分で何かを諦めたことを環境のせいにして、恨みながら生きる人生になるかもしれない。
……お父さんみたいにはなりたくない」
担任の言葉が後押しになった。
後日、ファミレスで60万円を受け取った。彼の言葉は本当だった。
震える声で、彼に伝える。
「絶対に、絶対に……やりきってみせるからな。お前に誓って」
こうして入学したのは、服飾の専門学校として有名なところ……厳しいことでも有名だ。
奨学金の申請の相談をした時、担当の人にこう言われた。親切心からだろう。
「バイトしながら学費を払おうとして続いた子なんていない。
うちはそんな甘い学校じゃないから、無理せず奨学金を取りなさい」
できた人はいない――それは、おれじゃない、過去の別の人たちじゃないか。
やってもみないうちから諦めるのは性に合わない。
奨学金は将来返せばいいので、借りること自体が嫌だとは思わないけど。
できた人がいなくても、おれはやってみたい。
もし本当に無理だと感じたら、後期からとか、2年に上がってから奨学金を取り始めればいい。
入学前の決意を信じて、自分自身を信じて……、おれは奨学金を取らないことに決めた。
高校時代から続けている焼肉屋でバイトをし、途中からは表参道の蒸し鍋屋にも勤めて。
土日は一日中勤務、平日も授業が終わったらダッシュでバイトに向かう。帰宅はもちろん終電。
本当に課題が多いので、電車内でも針を取り出して課題をこなす。
2時、3時まで夜なべして、朝も課題のために早起きして。
どんな理由でも遅刻の認められない学校だから、1限開始の1時間以上前に着くように電車に乗って、学校で課題の残りを。
休み時間はおにぎりをかじりながら課題、課題、課題。
自分の進学を諦めてまで金を貸してくれた友人への誓い。
「今日も、あいつとの約束を守ってる」
ハードな一日を終えるたびに、自分に対する自信が増した。
そんなギリギリの生活のなか、家庭環境は悪くなるばかり。
終電帰りで少しでも長く寝たいのに、お父さんが暴れて一睡もできないことなんてザラだ。
ハッと目覚めたある夜、喉元に包丁が。寝たふりをしてやり過ごした。
思いとどまって去っていったのは、お父さんにわずかに残っていた理性ゆえか。
荒れ狂ったお父さんから逃げ込んだ自室で「蹴破られたら、窓から飛び降りるしか……」と覚悟したこともある。
マンションの4階だ。飛び降りたら死ぬ、でも……死なないかもしれない。飛び降りなければ確実に殺される。
その夜は窓に足をかけた状態でひと晩過ごした。
「ああ、死んだな」
何度そう思っただろう。
死にたいと思ったことはない。どう生き延びるかだけを考える。
文字どおり“死線をくぐり抜け”てきた。
専門学校だから、皆それぞれの想いを持って集まっている。ほめ言葉としての“変人”が多い。
その何人かで話していた時、どういう流れだったか……ポロっと話した。家庭環境と、現在の境遇を。
するとそのなかのひとり、Iが、ボロボロ涙を流し始めた。
「お前……すごいな。そうだったのか。そんな大変ななかでも、想いを貫いて……」
その後、Iとは腹を割っていろいろ話せるようになった。
こんなに熱い奴は、これまでの人生で初めてだったかもしれない。
「狭い日本でも、こんなふうに予想を超えた出逢いがあるんだ。世界に出たらいったいどんな人がいるんだろう」
彼との友情から、漠然とそんな想いが生まれた。
そのIが、ある時おもしろい事を言い出した。
「将来、会社をやろうよ、亮ちゃんと俺とで。27になるまでに」
会社をやる……そんな選択肢があるのか。
考えたこともなかったものの、言われてみて心が動いた。
「なんで27なんだ? 」
「27ってのは、最高にクールな数字だからさ! 名だたるミュージシャンの何人も、27で死んでるんだ」
学歴があるわけでもない、家庭環境も壮絶ななか、会社をやるなんてリアリティは持てずにいたけど。
その少しあとにたまたまテレビの特集を見た。
学歴も何もないのにいま世界で活躍している人たちが、画面の向こう側でキラキラ輝いている。
「学歴とか、環境とか、関係ないのかもしれない。
むしろ、こんなおれが何かを成し遂げることで、同じような環境の人の希望になれる……! 」
働いても働いても、いくら稼いでも、学費と家族の生活費、それに借金の返済に消えてゆく。
お父さんが死ぬまでこの生活からは抜けられないんだ――どこかでそう思っていたおれだけど。
違う、人生を自分で切り拓くと決めたように、この環境だって変えてゆけるかもしれない。
いや、そうしよう。
ただ生き延びるだけじゃなくて。誰かの希望になれるような人生を、実現するんだ。