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キッカケインタビュー

誰もが医療者である自覚を――病院の中と外でパワフルに働く医師の話。

進谷憲亮(しんたに けんすけ)

医師
NPO法人「地域医療連繋団体.Needs」代表理事

この鍵人のコンテンツ:

キッカケ記事

いま何やってるの?
医師として日常業務をこなしつつ、院内外での医療教育事業などの提供を行っている。2018年4月からは特定NPO法人 JAPAN HEARTの長期医師ボランティアとしてカンボジアでの医療活動を予定。

すべての人が医療者である自覚を持つことの重要性を伝えるため、ドクターとしての仕事のほかにNPO法人での活動などを精力的に行う進谷憲亮さん。家族や友人達に支えられてきたその半生を振り返ります。

キッカケ①:大切な人達の力に……医者を志した瞬間。

一生この町で生きると思っていた。
温かい家族。地元愛の強い小学校に中学校。
福岡県の京都郡苅田町に生まれ育った僕。町から出るなんて考えたことがなかった。
「あんたの好きに生きなさい。人様に迷惑さえかけんかったらいいよ。
私達はあんたを信じちょるけん」
母はよくそうやって言ってくれた。父はそれをいつも黙って聴いていた。
大好きな家族や、僕を支えてくれる友人達とずっと一緒に過ごすために、どんな仕事に就くのが
いいんだろう。
漠然とそんな事を考え始めたある時。

「しんけん!しんけん!!!先輩が……」

卒業したバスケ部の先輩が亡くなったという知らせだった。
優しくてリーダーシップのある部活のキャプテンで、皆に慕われていた。
もちろん僕も大好きだった。
葬儀の日。棺に取りすがって我が子の名を叫ぶお父さんの姿がそこにあった。

「人が亡くなると、家族はこんなに……」




生き物は好きだったし、ペットが死んだ時には涙ながらに家族みんなで山に埋葬に行ったりした。
もともと命というものを意識していた方だと思う。
それでも、直接親しく交流していた人が亡くなり、その家族の悲嘆に接した衝撃は、大きかった。

人生で一番つらい目に遭うのは、自分や親しい人の死の瞬間なんじゃないか。
もしも僕がその最期の時間に関わっていたとしたら、「長い間お疲れさま」と言葉を掛けて見送るこ
とができるんじゃないか。
そして、残された家族に対してもいくらかの力になることができるんじゃないか。

この町で家族や友人達と生きるために。
中学生の僕は、医者になることを心に決めたのだった。





苅田町から離れるつもりのなかった僕だけど、医者になることを考え、
地元の高校よりレベルの高い、少し離れた高校への進学を目指すことにした。
いつも一緒に登下校する仲間と帰りながら、僕だけ教科書を読む。
それまでと同じ様に、放課後は友だちの家に皆でダベりに行くのだが、
その頃からは僕だけ別室で勉強させてもらう様になった。
いきなり勉強なんか始めた僕のことを煙たがることもなく、彼らは側にいさせてくれた。
そして、いつも応援してくれていた。

それでも中々成績が伸びなかった時、三者面談で担任の先生が僕と母にこう言ってくれた。
「進谷くんは馬に喩えると、みんながその辺に転がってる人参を食べているのに、
進谷くんだけは、なぜか木に引っ掛かってる届きそうで届かない人参を取ろう取ろうとして、
最後には必ず取ってくるタイプですから。信じて大丈夫ですよ」
先生のこの言葉を実現するためにも、絶対に受かってみせる。そう誓った。

多くの人に支えられて僕は、その高校に合格。
合格発表の日、合格者はみんな学校の体育館に集まった。体育館に入ると同時に、喝采が。
「しんけんがK高校に合格したぞ!」「おめでとう!やったなあ!!!」

中学校でも家でも大騒ぎだった。
父方のおばあちゃんには「浮かれてちゃいけんよ。受かったこれからが大変なんよ」と言われた。
母方のおばあちゃんにも
「また、お医者様に一歩近づいたね。けんちゃんは本当にすごいね。
でも、先生、先生って呼ばれる人間にろくな人間はおらんから、気をつけないけんよ。
お医者様として責任を持って。
飛行機の中で、お医者様いますかって言われて、手ぇ挙げられん様な医者にはなっちゃいけんよ」
と言われた。
まだ高校に合格しただけなので少し気の早い話だが、おばあちゃん達の言葉はしっかり胸に刻まれた。

ただ医者になるんじゃない。
目の前の困った人のために知識も技術も、そして勇気も持った医者になろう。
そんな決意を胸に、僕は高校に進学したのだった。

キッカケ②:家族や仲間に支えられて。

「受かったこれからが大変」という言葉に活を入れられ、
高1の時は毎日午前3時まで勉強して、学年7位あたりをキープ。休み時間はだいたい机で寝ていた。
同時に2つの事のできない不器用な人間で、
2年でバスケ部のキャプテンになってからは150番台までガタ落ちしたけれど。
部活に勉強に、基本的にまじめな高校生活を送っていた。まじめなことがイイ事だと思っていた。

そんな中で迎えた修学旅行。
行きのバスでは、後列ではしゃいでいる友人達をよそに、前列で寝ていた僕。
夜の集まりで「進谷くんは優しいけど、ノリが悪い」という女子からの評価を知って、行動を変えた。
帰りのバスでは後列の友人達に交ざり、マイクをつかんで、DA PUMPの「if...」を熱唱。
それまで被っていた殻を破る経験だった。

優しいことやまじめなことが悪いわけやないけど、今、僕に求められているのはノリなんだ。
これまでは人前で歌ったり、はしゃいだりする事が得意ではないし、あまり好きではなかった僕。
いざやってみると、その場の盛り上がりに喜びを感じている自分に気づいた。
そして、それを楽しんでいる自分もいた。
 
自分がこうだと決めつけていた自分以外にも、自分は色んな顔を持っている。
自分自身のことであっても、知らない事がたくさんあるんだ。
人との交流を通して、自分の新しい面を見つけていくのだと知った。
新しい人との出会いは自分というパズルを完成させるためのピース集め。
人との繋がりの楽しさ、そして、人生におけるその大切さを改めて実感する様になった。
人のこと、そして、自分のことがもっともっと好きだと思える様になった。




進路はK大学の医学部医学科を目指していた。成績は思う様に伸びず。
冬になって塾に通い始めたけれど、センター試験は自己採点でC判定だった。
希望のK大学医学部医学科は、二次で挽回するのも難しい。
合格圏内のN大学に変える様担任に勧められ……。

とたんにやる気が出なくなった。N大学の良し悪しじゃない。
一度決めた目標を変えてしまったことが原因だった。
「行きたいとこがあるなら浪人したら」と親は言ってくれるけれど、
弟がふたりもいるのにこれ以上お金を掛けるのも……。

そんな時に背中を押してくれたのは下の弟だった。
ポロっと相談をした時に、間髪入れずにこう言ったのだ。
「受けたいとこ受けたらいいやん。浪人したらいいって言ってくれてるんやし、したらいいやん」

一度きりの自分の人生、自分の思う様にしたらいいやん。
その言葉に勇気付けられ僕は浪人覚悟での志望校受験を決意。
結果は、前期不合格。後期はK大学の別の学科に合格した。

いざ合格すると今度は迷いが生じる。
親に余計にお金を出してもらって浪人して医学部医学科を目指すのか、現役で別の学科に進むのか。
 
中々決心がつかずにいたある日のこと。友だちの家から帰宅すると、今度は上の弟が
「兄ちゃん、今日、K大の学長さんから電話あったよ」と言う。
「今日までに入金しないといけないって」
「マジで?何て言った?」
「断っといたよ」
なんと。面食らう僕に、弟は続けた。
「うちの兄は来年医学部医学科受け直して医者になるんで、今年行かないです、って。
だってそうやろ?」
わが弟ながら流石だと思う。

ふたりの弟の言葉、家族の応援……高校受験の時と同じだった。
僕の夢を僕以上に信じ、応援してくれる。


浪人中は家にいても誘惑に負けると思い、予備校の寮に入り、文系理系問わず集った仲間と切磋琢磨。
誕生日の友だちがいるとサプライズで祝っては、
夜中に苦情が出るほど盛り上がって寮長室に呼び出されたりした。

またまたやってきた受験シーズン。
2回目でもやはり慣れないあの試験会場の張り詰めた空気。
センター試験1日目終了時の手応えは……「やばい。地理で失敗したかも」

2日目を終えてすぐに寮に戻り、自習室で自己採点。
結果は、予想に反して得点が取れていた。
「やった」ホッとした溜め息と一緒に、思わず、小さな喜びの言葉が口から漏れた。

その瞬間、机の向こうから人影が。寮で共に過ごす友だちが泣いて喜んでくれた。
「しんちゃん、センター試験1日目が終わってからずっと落ち込んでたから。
大丈夫かなーってずっと心配だったよ。よかった、よかったよ……!!!」
思っている以上に不安が顔に出ていたらしい。

1年間の浪人生活も、共に過ごした友だちのお陰でかけがえのないものとなった。
信頼する友だちをさらに増やして、僕はK大学医学部医学科に進学。
晴れやかな気持ちでその門をくぐったのだった。

キッカケ③:講義では学べない医療の本質。

医学科に入って、専門を選ぶ時に、はたと立ち止まった。

僕が医者を目指したのは、大好きな人達の力になりたかったからだ。
大きな病気やお金の苦労をしてこなかった僕。
リアルに感じられる人生で一番大きな不幸は、死だった。
だから、死に際した人やその家族のサポートがしたいと思ったのだ。

ただ、医者は臓器別に専門科に分かれている。「別に、心臓だけが見たいわけじゃないし……」
専門をどうしようか考えながら学ぶうち、救急医療を専門にしたいと思う様になった。
飛行機や街中で人が倒れた時に、専門じゃないかもしれないからと名乗り出ない医者になっちゃいけない。
いつかのおばあちゃんの言葉も、救急の道に進む指針になった。





アルバイトも大切な社会勉強の機会だった。

夏休みの屋台の手伝いをとおして人の集う空間を創るという飲食店の魅力に気づいたのと、
もっと人と話すことに慣れたいという気持ちがあったのとで、
縁のあったカフェバーと居酒屋でのアルバイトを始めた。
バーでも居酒屋でも、カウンター越しにお客さんと話す機会がたくさんある。
高3の修学旅行以来いくらか社交的にはなったものの、ここでいろんな方と話した経験は
人としても医者としても本当に大きな財産になった。

僕が医学生だということも常連さん達は皆知っている。
普通の会話もするけれど、医学生として相談を受けることもあった。

「しんちゃん。もし俺の余命がわかったらな、半年以上前に言うてくれ。」
特に持病も持たない健康な人がそんな風に言うことがあった。
「もし突然余命1ヶ月って言われても、そんな急に死んでられん。
残った仕事どうするかとか、後継どうするかとか、いろいろ死ぬ前に準備せないけん事がある」
オーナーにも
「俺が死ぬ時は余計な治療なんかしないで、死にたい様に死なせてくれ。苦しまない様に安楽死させてくれ」
とよく言われた。

病気そのもの、死そのものだけが問題や恐怖の対象ではないのかもしれない。
その背景に「何か」があって、その上で死や病気への恐怖が生まれているんじゃないか。
そこまで深みを持って患者さんと接しないと、
患者さんの求めるものと医療者の提供するものに齟齬が生まれてしまう。
大学の講義では教えてもらえない、生身の人と接して初めて気づく事だった。





6年間の大学時代での色々な経験をとおして
「病気じゃなくて人を診る医者になりたい」
と強く想う様になった。

そうした志を抱き、卒業後はT病院への勤務を希望、
住み慣れた福岡の地を離れることにしたのだった。

キッカケ④:自分の人生に責任を持って。

東京に行くことが決まった僕に、バイト先であるカフェバーのオーナーはこう言ってくれた。
「今までみたいに、いろんな人とちゃんと付き合っていけよ。
自分とは全然違う分野の人と接する機会を作れ」

そうは言われたものの、2年間の研修期間はほとんど病院に寝泊まりする生活だった。
仕事以外の関わりを持つ時間もなく、医者としての仕事に必死で向き合った。

初期研修医として、救急科含めた色々な科での研修を通して、
病気じゃなくて「人」を診ることが如何に大切かを実感していった。


病院での医療を頼って受診する人が、必ずしも病気で困っているとは限らない。
身体の問題が表に出やすいため、身体の痛みや機能的な問題が原因で受診している様に見える患者さん達。
そのうちの一定数は、家族関係や職場環境の悩み、金銭的な悩みなど、
社会的な問題やそれに対する不安を抱えていることが少なくなかった。

T病院の様な専門に特化した総合病院でもそうした事を多く感じるのだから、もっと地域に身近な診療所やクリニックであれば尚更ではないだろうか。
そしてその背景には、核家族化や地域とのつながりの過疎化など、今の日本における社会状況が影響している様に感じた。


救急医療の現場においても同じだった。

救急外来や救急車を利用する患者さんの中には、医学的には軽症な人が多く含まれる。
しかし、それは医学的な評価であって、患者さん自身は本当に困っているのだろう。

良くも悪くも簡単に情報を得る事が出来る様になった今の日本において、人は様々な情報に振り回されながら生きている。
要はみんな「不安」なのだ。不安で仕方がないから、最後の砦である病院を頼って来る。

しかし、病院は病気を治すところであって、今の社会における不安を全て請け負うことは難しい。
そうしてしまうと、本当に医療が必要な人に適切な医療が提供できなくなってしまう。
既に需要と供給が合わなくなっているのが実情だ。
患者さんの盥廻しや医療費高騰といった医療問題の背景には、そうした日本の社会事情があることを知った。


であれば、病院の外で人々の不安を解消する仕組みがあればいい。
そうすれば、医療者も自分のやりたい医療に専念できる。
今の日本の医療を良くするためには、「病院に運ばれる前」そして「病院での治療が終えた後」、
すなわち「病院の外=地域」に課題があるんだ。

医療者も非医療者もみんな幸せになれる社会の仕組みづくりがしたい。
地域医療という概念に関心を持つ様になった。

島嶼(とうしょ)医療に携わる機会もあり、3年目には3ヶ月間三宅島の診療所で勤務。
その経験をとおして、地域医療についてさらに考える様になる。





病院の外、地域での医療について考えてみてわかったこと。
人はみんな健康に、そして幸せに生きたいと思っている。
今、世の中に出回っている商品やサービス、存在する職業はすべて、直接的にしろ、間接的にしろ、
誰かを楽に、笑顔に、健康に、そして幸せにするためにあるといっても過言ではない。

広い意味で捉えると、どれもこれも医療なんじゃないか。
医者が病院で施すのが医療のすべて……じゃなくて。
病院の外でも医者は医療を施すし、農家の人も、企業の人も、保険を売る人も、
誰かの幸せのために働いている。
何もできない様に見える赤ん坊でさえ、親の精神的な健康にどんなに貢献していることか。
医療を「人々が健康に暮らせる様にサポートすること」と捉えると
こんなにも広く、可能性がある分野であり、また、生きているすべての人が医療者なんだ。
その自覚がないだけで。


だったら、その自覚を持ってもらえる様にすればいい。
そのために僕にできる事がきっとある。





T病院に勤務しながら、
僕はいま「Joy'N US Community × Medicine」という勉強会を定期開催、
福岡と東京を拠点に活動するNPO法人「地域医療連繋団体.Needs」も運営している。
ひとりひとりが医療者であるという自覚を持って、
地域全体、町全体の健康・幸せに貢献してもらいたくて。

医者以外のひとりひとりが医療の一部を担う自覚を持つ様になれば、多忙な医者の仕事量が減る。
それは、医者が、医者でなければできない医療をより高いクオリティで提供することにつながる。
医者でなくても救える命は増え、医者の救う命も増えるだろう。
医療行為を選ぶにも、「お医者様に言われたから」ではなく、自分自身で選ぶという自覚を持つのだ。
何でも自分でするとか、医者の世話にならないとか、そういうことではなくて。
医療を受けるも受けないも、何をするにも、自分の人生に責任を持つ、そういう人を増やしたい。





「困っている人がいるのに手の挙げられない医者になってはいけない」
「病気ではなく、人を診ることのできる医者になる」
「色んな人との出会いを大切にする」
「高い目標を目指して、必ず叶える」
「一度きりの人生、自分のやりたい様に生きる」
これまでの人生におけるたくさんの人との出会い、みんなからもらった言葉が、今の自分を作り上げている。
そして、その原点には両親からの愛情と信頼があると感じている。

医者を志したあの時、僕が友人達を看取ることで彼らや彼らの家族の幸せに貢献できると思っていた。
けれども、僕だっていつかは死ぬ。僕がいなければ成り立たない幸せ、それはどうなんだろう?
僕がいなくても友人達が健康でいられる様に、自分でヘルスマネジメントできる様に、
僕がいなくても友人達が死ぬ時に幸せでいられる様にしないと意味がない。
そういう社会をこそ、今、僕は目指している。

医者がいなければ健康になれない社会ではなく、
ひとりひとりが医療者として生き、皆で健康に、そして幸せに生きる社会を。
そんな社会の一員であることを心にとどめ、
自分の人生を自分で選択するという責任を持って、幸せに生きてほしい。





これが、僕のつかんだKeyPageです。

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掲載日:2018年03月02日(金)

鍵人No.0080

進谷憲亮(しんたに けんすけ)

1987年、福岡県京都郡苅田町生まれ。福岡県立小倉高等学校卒。九州大学医学部医学科卒。2013年4月から 東京都立多摩総合医療センターに医師として勤務。都内で地域と医療をつなぐ場として、「Joy'N US Community × Medicine」を定期開催。2016年、NPO法人「地域医療連繋団体.Needs」を立ち上げ、一般の方への医療教育の提供、健康な町づくり事業などに携わっている。

NPO法人「地域医療連繋団体.Needs」
HP https://www.npo-needs.com/

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