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キッカケインタビュー

演劇の可能性は無限大!走り続けた演劇人生のその先へ。

池田レゴ(いけだ れご)

演劇・ゲーム専門家

この鍵人のコンテンツ:

キッカケ記事

いま何やってるの?
演劇即日常!演劇の社会的な地位向上により、演劇を庶民の文化にしたいとの思いがあり、演劇と日常を結びつけて人生を舞台化するコミュニケーション改善プログラム「演劇活用法」を提唱して教育や人材育成に努めている。また演劇=遊びの観点からアナログゲームと演劇の関連性に注目し、普及率を上げるための演劇のゲーム化をしながら、講師やインストラクターに役者の説明力の高さを活かすことで活躍の場を広げて、役者の経済状況を改善させる活動をしている。 

コミュニケーションの質を改善する人材育成レッスン「演劇活用法」を普及している池田練悟さん。演劇の未来と役者の為に今の劇団を立ち上げるキッカケとなった自身の経験とは…!?

キッカケ①:壮絶ないじめの中で見つかった夢

僕は、大阪府堺市で生まれ奈良県で4人兄弟の長男として育った。
小学校の頃は人と話すのが大の苦手だった。クラスメイトと話そうとすると、過度に緊張してしまい吃音や赤面してしまう。会話ができないことで、まるで対人恐怖症のようになっていった。

友達のいない僕は、本や映画の世界に逃げ込むことしかできなかった。
少し内弁慶なところもあったのだろう、家族とは普通に話せた。結果、授業参観に来てくれた母親が、家と学校のギャップに愕然とし「この子はもう家でしかるのはやめよう」と誓うほど学校では暗く沈んだ小学生だった。



コミュニケーションが取れない根暗な小学生。
僕は格好のいじめの標的になり、休み時間になると殴る蹴るは当たり前。椅子の上から飛び膝なんて一歩間違えたら死んでいたんじゃないかと思う。丈夫な身体が幸いして暴力は陰湿ないじめへと変わっていった。机とカバンが南京錠で繋がれていたり、飲み物にツバが入っていたりした。



ただ地頭は良かったので心が壊れることはなかった。IQテストは学内でトップだったし、体力テストの値も相当高かった。



ただコミュニケーションがとれないだけだ。だからいじめを告発することもできない。一見、優秀な壊れない寡黙な「おもちゃ」は、いじめっ子にとっては最高だったのだと思う。


「なんで僕はこんな人間なのかな・・・」


そんな状況の中でも、人を嫌いになることはできなかった。
だから辛かった。人が好きだけれど、でも人に嫌われてしまう。まるでノートルダムのせむし男。だから人が出てくる物語に惹かれたのだろう、逃げ込んだ本の世界にはたくさんの魅力的な登場人物たちがいる。その中でも、シャーロック・ホームズが大好きだった。将来は名探偵になろうと決めていたくらい。だからあの映画-アニメ映画「カリオストロの城」-に出会わなければ僕は今頃、探偵会社で働いていたかもしれない。



ルパン三世という、魅力的な世紀の大泥棒に僕は強烈な憧れを抱くことになる。



「ルパンになりたい!でもホームズにもなりたい!」

「ダメだ・・・僕(泥棒)を捕まえる依頼が僕(探偵)に入ったらどうするんだ・・・」

「この二つは・・・両立できない・・・!!!」



小学生の頭で必死に考えた。そこで思いついたのが“演劇”だった。



「役者だったらどちらもできる。それに、台詞の練習はコミュニケーションの練習になるかもしれない!一石二鳥じゃないか!」



早速劇団を作ることにした。集めることができたのは、自分が声をかけやすい学校のハブられものたち―いじめられっこ―ばかりだったけれど…



僕が脚本を書き、演出をし、出演もした。
みんなでする練習はとても楽しかった。お楽しみ会(学期末のクラスごとの小さな発表会)で発表する機会ももらった。これが、僕の芝居を始めたキッカケになる。

キッカケ②:演劇漬けの学生生活、演劇に命を捧ぐことを決めた観客からの一言…

舞台の経験によって人前で話す事に慣れたのだろう。
一種のショック療法だ。吃音や赤面することがなくなった。人とコミュニケーションが取れるようになり友達ができた。中学校ではクラス委員に選ばれるくらい人前で話せるようになり、慕ってくれる後輩もできた。いじめ漬けの日々が嘘のようだった。



高校では演劇部の部長をしながら演劇漬けの毎日を過ごしていた。
順調だった。将来の夢は役者になると決めていた。高校野球における甲子園のようなものが高校演劇にもあり、夏に行われる高校演劇大会だ。高校二年生の夏に、僕の学校は僕が書いたオリジナルの台本で挑戦した。結果は惨敗だった。



「詰め込み過ぎです。何を言いたいのかわからない」



審査員の代表者(プロの演出家)は、僕にそう告げた。
僕の脚本と演出はまるで伝わらなかった。若かった。プライドの塊だった。演劇が僕のプライドの全てだった。その人間が演劇を否定されてしまっては何もできない。惨敗して更に僕は演劇にのめり込むことになる。



高校三年生の夏。
受験を完全に無視して脚本、演出、演技術を一から学び直した。今の自分の力を全て原稿用紙にぶつけた物語のタイトルは『誰もいない森で倒れた大木に音はあるのか?』




本番当日、観客の反応は想像を遥かに超えていた。波のように押し寄せる笑い声、泣けるシーンでは嗚咽が聞こえる、そして鳴り止まない拍手・・・審査員の代表者が行う寸評でも非常に好感触だった。



「やった!一番ウケた!僕の作品が一番お客様に楽しんでもらえた!」



しかし・・・大会は落選に終わる。
さすがに納得がいかなかった。「観客にも一番ウケた、そしてあなたもあんなに褒めてくれたじゃないか!」僕は審査員の代表者に詰め寄った。彼が教えてくれた落選理由は、顧問審査員の反対が多すぎたというものだった。



この台本のテーマは「幸せとは何だろう」と僕なりに考えたものだった。
お金も幸せ、愛する人と一緒にいるのも幸せ。死ぬこと・・・それも幸せの一つかもしれないといった自殺志願者の物語を僕は書いた。「生きる為に笑顔で前を向く」というエンディングで終わったのだけど、高校教育的には、「“自殺志願者”が“死を幸せとして望む”」なんて内容は到底受け入れがたい。審査員の代表は演劇で食べているプロの演劇人だけれど、他の審査員は演劇部の顧問だ。審査員といっても教員。教育的な面を考えてのこの結果は理解せざるを得なかった。



悔しかった。どうしてそこまで気が回らなかったのか・・・と。
観客だけではなく、審査員も楽しませるものが作れなかったことが悔しかった。ただこのことをキッカケにして、他校の演劇部の知り合いが一気に増えた。学生たちは大会の結果ではなく、内容を評価してくれたのだ。



高校を卒業し、近畿大学の文芸学部に入学し演劇芸能学科を専攻した。
僕と同時期に卒業した色々な学校の演劇部内のスターたちを集めて劇団を立ち上げた。18歳、2度目の旗揚げ。精力的に活動をし、地元では結構知名度も付いてきた。
そして20歳、僕の人生を変えたあの台本の再演をすることになった。



『誰もいない森で倒れた大木に音はあるのか?』



「孤独は人を蝕む・・・人は幸せになる為には孤独と向き合うしかない」

「孤独な想いを誰にも語れずにいるとしたら、その孤独はどうしたらいいのか・・・」

「どうやったら孤独と人は向き合うことができるのか・・・」



高校二年の大会で落選してから、僕はずっとこのことを考え続けた。
いじめられていた頃の孤独な体験が、幸せになる為には、孤独と向き合う必要があると僕に感じさせた。いじめられていた僕は誰にも叫べなかった。そんな僕の気持ちは誰にも届かなかった。誰もいない森で倒れた大木に音はあるのか。あると信じたい、でも孤独を抱えて人はどうやって生きていけばいいんだろう…真っ白な原稿用紙を前に僕はずっと悩み続けていた。



ある日、近鉄電車の六番線に上がる階段の途中で突然閃いた。


「愛すればいいんだ。」と。



生きる為には愛すればいいんだ…それが孤独と戦う武器なんだ…興奮状態で僕は一気呵成に階段を駆け上り、駅のホームを端まで走った。正体不明の多幸感に包まれたままホームの端で僕は叫ぶ。



「愛だーーーーーーー!」





今考えると完璧にやばい人だ。やばい高校生だ。その絶叫をしたのが金曜日。その日の晩から土・日の三日で書きあげた。書き上げる為の力は積み上げてきたから書き始めたら一瞬だった。



そんな個人的にも思い入れのある台本の再演に心躍った。大幅に加筆をし、本番を迎える。公演終了後、目を通したお客様のアンケートが僕の人生のテーマを決めることになる。そこにはこう書いてあったのだ。



「最近生きていても面白くない。毎日毎日同じ事の繰り返しで本当につまらない。だから私はもう死のうと思って
いました。今日、友達に引きずられてあなたたちの芝居を見に来ました。面白かったです」と。



その下に小さな字でこうあった。



「もうちょっと、生きていてもいいかなと思えました。本当にありがとう。」と



…涙が止まらなかった。



僕は演劇に救われた。演劇のおかげで人とコミュニケーションをとれるようになったのだから。
そんな自分が、演劇を通して、人に生きたいと少しでも思ってもらえたんだ。凄い…演劇って凄い…このアンケートは僕が『生涯、演劇に命をかけていく』ことを決めたキッカケになる。

キッカケ③:中退、結婚、転職...紆余曲折しながらも、今につながる様々な経験

僕は21歳で大学を中退した。早く現場に出たかったのだ。
上京し芸能事務所の門を叩き、研修生になった。半年もすれば芸能業界の闇の深さはすぐにわかった。研修生から上に行ける可能性がほぼないことが。全部が全部そうとは言わないが、多くの研修生は“夢を持つ若者から、お金を吸いあげて事務所の運営資金にするためのシステム”なんだなということがわかり研修生を辞めた。



「演劇をしよう…僕には演劇しかない」



バイト以外の時間は、全部演劇に費やすことにした。
劇団を旗揚げし、毎月新しい台本を書き、演出をし、俳優としても出演した。チケット管理などの制作業務や小道具の製作もすべてやった。周りから「ありえない」といわれる程の過酷なスケジュールは決して苦ではなかった。そうすることで芝居だけで食べていけるようになったのだから。



34歳で結婚をする。ただ芝居だけで、二人分の生活費を稼ぐことは難しかった。
生活費を稼ぐために家電量販店の派遣社員として営業職に就いた。演劇で培ったコミュケーション能力は、面接にとても活かすことができたが、社会はそんなに甘くなかった。営業が全くできなかったのだ。「僕は役者なのにどうしてこんなことをしなければいけないんだ」といった慢心がそのまま営業成績に反映されていたのだろう。でも、このまま成績が悪ければ派遣は簡単にクビを切られてしまう。どうしたらここで楽しく仕事が出来るんだろうと真剣に考えた。



試行錯誤の末、辿り着いたのが「営業の仕事ではなく演劇の舞台だと思って仕事をすること」だった。

同業者は共演者。お客さんはそのまま観客だ。マニュアルは台本で、職場はステージ。僕はここで芝居をしているんだと思って取り組むことにした。



たったそれだけのことで成績はみるみる上がり、最下位からトップまで登り詰めた。やはり「僕には演劇しかない。そして演劇の可能性は本当に凄い」と改めて思ったのだった。





演劇を使った営業をしながら安定した日常を送っていたある日、昔の友人と会うことになった。友人は会社の社長になっていた。お酒が入って饒舌になった彼は「お金はあるけれど面白いことがないんだ」と僕に愚痴をこぼした。


「面白いことがしたいんだったら僕に投資するといいよ!」と僕は彼に持ちかけた。


「じゃあ覚悟を見せてほしい」と彼は僕に言った。


覚悟か…なんとなくピンと来るものがあった。翌日、いつものように職場に行き、僕は上司にこう告げた。


「最短で辞めたいんですが、いつ辞めることができますか?」と。


僕は生活の安定を捨てた。そして一週間後、彼に会った。


開口一番、僕は彼に「会社辞めてきたよ。」と伝えた。
彼の会社に、僕の為の新規ネットテレビ事業部が作られた。色んなことをさせてもらった。芸人と一緒に幽霊を探しに行ったり、ホームレスにインタビューをしたり…



すごく面白かったけれど、何故か満たされない僕がいた。
どうしてなんだろう…と自問する日々。社長はすごくいい人だ。そして恩もある。でもどうしても自分が納得できなかった。自分がやりたいことと、ネットテレビの流行とがあまりにも合っていなかったのだろう。



ネットテレビの主流は、過酷なことをして笑いをとることになっていた。
そのほうがお金もかからないし、やる人が辛いだけだ。それを観て視聴者は自分が安全圏にいることで笑うことができる。僕は誰もが笑顔でいられるものを作りたいと思っていたのだろう。でもそれを作るには人もお金も時間もかかる。簡単に作れるものじゃない。


「作りたいものはこれじゃない…!」


ジレンマやストレスで下血し、身体が動かなくなっていった。結局、会社は辞めることになる。

キッカケ④:キッカケは妻の一言。新たなるビジョンへ。

無職になってしまった。
少しの間は貯金で食いつなぐことができるかもしれない。でもそれも減っていく一方だ。


「僕は演劇がしたい。でもどうやったら演劇で食べていけるんだろう…」


頭を抱える僕に妻が言った。


「あなたのやってきたことを教えてみたら?」


「え?僕のやってきたこと?」


「だってあなたは演劇を使って営業成績も上げることができたし、会社に事業部まで作らせたんでしょう?」


それは…面白い。それに演劇の可能性を伝えていく仕事は僕にはうってつけな気がした。


「演劇には凄い可能性があることを人に伝えて行きたいんだ!」


僕は昔馴染みを辿って、一緒に芝居を作っていた女友達に相談することにしてみた。
フットワークの軽い彼女は、待ってましたと言わんばかりの顔をしていた。「面白そうだね!じゃあ来週の土曜日空いてる?場所押さえてワークショップやろう!一人5000円でどう?」



彼女はあっという間に4人の受講生を集めてくれた。
まだやりたい気持ちだけで形にもなっていないのに、本番の日は迫ってくる。舞台をやっていたあの日の感覚が戻ってくる。本番ギリギリまで少しでも表現をブラッシュアップしようとしていたあの日の感覚。公演が決まったら降りることはできない。幕が上がったらもうやりきるしかないんだ。初めての社会人向け演劇活用法ワークショップ。



ワークショップが終わった後は、汗が絞れるくらい服が濡れていた。





反省会の席で彼女は、珈琲を片手に僕に言った。


「実際一回は受けてみようと思っていたんだ」と。


「もし面白くなかったり実用性がなかったら『やめたほうがいい』ってはっきり言おうと思ってたんだよ」と。


「でも、これ面白いよ!うん、いけると思う!一緒にやろうよ!」


IKEDA REGO GARAGEという屋号をつけた演劇ワークショップの個人事業主になった。
REGOはラテン語で演出、レゴはデンマーク語で「よく遊べ」の略称だ。小さなガレージから世界に羽ばたいたスティーブ・ジョブスにあやかって、演劇の新しい可能性が生まれる場所としてレゴガレージと名付けた。


そして、彼女とは週1ペースで打ち合わせをした。
知名度を上げるのが最優先だ。その為にはコンテストに出たほうがいい。彼女は僕に社会人大学の講義コンテストの情報を持ってきた。出ない選択肢?そんなものあるわけがない。


「最も面白そうな講義」として優勝を勝ち取り、異例の速度で講座を開設。

それが縁となり、デザイン御三家といわれる有名な桑沢デザイン研究所からゲスト講師のオファーを頂き、スピーチの舞台としては最高峰のひとつであるTEDxへの登壇もすることができた。市民文学館や学童教育の依頼、知名度が上がっていけば少しずつ依頼も増えていく・・・演劇の活用法を伝えていけばいくほど、舞台がやりたい、もっと演劇への恩返しがしたいという思いが日に日に高まっていった。



2015年7月。これが僕の人生最後と決めた劇団を旗揚げすることにした。
劇団ClownCrown。役者と社会人の架け橋であり第三のセーフティネットになれる新しい劇団の形を必死で考えた。夢を持った人たちが搾取されていくような業界や社会の状況に風穴を開けられる形を。劇団員―仲間たち―がもっともっと自由に、もっともっと自分のしたいことができるようなそんな団体を作ろう!一人で出来ないことも仲間がいれば必ずできる。僕自身が仲間のおかげでここまで来れたのだから。そしてもっと演劇の面白さ、演劇活用の実用性をを社会に伝えていくんだ。演劇の可能性はまだまだ日本では知られていない。僕は演劇に救われた。これからは演劇に恩返しをしていくんだ!



ここから約1年半で3人で始まった劇団は、25人(役者志望3割で社会人7割)まで膨れあがることになる。

そして今なお増え続けているのだけれど、それはまた別のお話。


これが、演劇に救われた僕のKey Page...


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掲載日:2017年02月10日(金)

鍵人No.0044

池田レゴ(いけだ れご)

実績:TeDx登壇/日本演劇地位向上協会 理事長/学校教育アーティスト協会 理事/アナログゲームインストラクター協会 理事長
講師歴:自由大学/桑沢デザイン研究所など
研修歴:プルデンシャル生命株式会社など

IKEDA REGO GARAGE公式Website
http://www.ikedaregogarage.com/
劇団ClownCrown公式Website
http://clown-crown.net/
池田レゴFacebook
https://www.facebook.com/rego.ikeda
IKEDA REGO GARAGE Facebookページ
https://www.facebook.com/ikedaregogarage/
劇団ClownCrown Facebookページ
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