「長男なんだから、親の期待に応えなきゃいけない」
そんな思いが、僕の根っこにはあった。
僕は絵に描いたような「いい子」だった。小学生では生徒会長。中高は進学校で、サッカー部のキャプテンを努めた。高校卒業後は大阪の大学に進学。弟と妹がいたけど、弟は勉強もスポーツも得意なわけじゃなく、仏教系の大学へ。妹は大学に行かずに就職した。長男の僕だけが、みんなが想像するような普通の人生だった。
僕はきっと、親の期待していた通りに育っていたのだと思う。
真面目に勉強して、大学に進学。就職して、真面目に仕事して、結婚して、家庭を作って……。両親は僕がそんな人生を歩むことを望んでいただろうし、僕自身、そうなふうに生きていくんだろうと思っていた。期待された生き方をしている自分を誇らしく思っていたし、弟と妹のことを内心では負け組だと思っていた。一方で、「普通の人生」とは違う生き方をしている二人を羨ましさも感じていた。
しかし、大学に入ってからは僕は変わった。バブル経済の真っ只中、イベントサークルに入った僕は、ディスコのミラーボールの下で鮮烈な大学デビューを果たした。
クラブを貸切って踊り倒したり、皆でスキーにいったり。イベント集客を担当して、50人キャパのディスコをいっぱいにすることもあった。ナンパをしまくって恋愛武勇伝を競い合ったり、出来心から食い逃げしたり、テレビ関係者に気に入られて、バラエティ番組のレポーターなんかもやった。
遊び倒しの大学時代を終えて、僕は商社に就職。誰かに言われたことを言われた通りにやるんじゃなくて、自分で何かをやる。ここならそんな生き方ができると思ったからだ。
プラスチック部門に入った僕は順調に仕事を成功させていった。大手メーカーの製品を作るため、特許を持った中国のおんぼろの工場を立て直したりした。30歳で東京に転勤し、プラスチックの輸出やM&A(企業の合併や買収のこと)を担当することに。
話はうまく進んでM&Aが決定、そんなときだった。
自社が他社と合併することになって、M&Aの計画が凍結、僕は2年間出向してきた取引先を追い出されてしまった。
「ええことやろうとしてたのに」提案を快諾してくれた専務の言葉が胸に刺さる。
とにかく、僕は自社に戻ることになった。
自社の方も大変だった。従業員の給料は25%カット。オフィスも合併先と共同になって、隣のデスクに知らない社員がいる。雰囲気は最悪。新人はどんどんやめていく。
「これはあかん。なんとかしないと!」
労働組合の支部長をしていた僕は、組合主催で合併記念パーティーをやろうと決めた。
「そんな雰囲気じゃない」そう言われながらも、賛成してくれた人たちと一緒に奔走した。結果としてイベントは大成功、1500人キャパの会場がいっぱいになった。
一方、取引先から出戻った僕は新規事業開発を担当することに。液晶テレビやタッチパネルといったいわゆるハイテク産業で、全くの新興分野。でも不安はなかった。自分にならできるだろうと。
しかし、1年経っても、2年経っても結果が出ない。市場はシャープやサムスンといった大企業同士の戦いになっていて、今さらそこに参入する余地なんてなかったのだ。
3年やっても結果がでず、だんだん周りの視線が冷めたものになっていく。
「仕事ができないやつ」
そんな扱いを受けている気がしてきた。「普通の仕事に戻ったら?」そんな言葉も「お前は出来が悪いからやめろ」というふうに聞こえてくる。新入社員が入ってくるたびに「こいつにも『できないやつ扱い』されるのか」と不安になる。
5年目になっても結果はでない。心は追い詰められていき、やがて僕は、人と話していると突発的に眠ってしまうようになった。
うつ病だった。
やけに優しい口調で、人事は僕に何をしてもいいという。会社休みますか?残業なしにしますか?今まで通りにしますか?
僕は、新規事業さえうまくいけばすべてがうまくいくと思っていた。それさえうまく行けば、「できるやつ」になれれば、体の不調も、心の苦しさもなくなるはずだ。でも、もう辛い……。
「自分はできるやつ」その自信のせいで、僕は周りの誰にも相談できなかった。
よく当たると評判の占い師と2時間くらい話して、ようやく僕は会社を休むことにした。肩の荷が下りた、楽になった、なんて感覚はこれっぽちもない。あるのは「もう終わりだ」という絶望感だけだ。
新規事業を投げ出して、うつ病になって、会社を休んで、「何もできなかったやつ」のレッテルを貼られて、今までのキャリアは台無し。38歳。僕はどう生きていけばいいのかわからなくなった。