スタッフは次々と辞めていった。
それぞれ事情もあるんだ、辞めたものは仕方ない。そう割り切って翌年度大量採用した新入社員5人全員が1週間で辞めた時、さすがに俺も危機感を抱いた。
……ポキッと、心が折れる音がした。それでもやめる勇気すら無くなっていた。
ただただ業務を、作業を、こなす毎日だった。上に叱られないように。お客様からのクレームがつかないように。縮こまっていた。どうにかしなければという思いすら削がれてゆく日々だった。
ある日のこと。知らない電話番号から着信があった。出てみると、高校時代のバスケット部の先輩だった。
がんになった知り合いが抗がん剤治療の副作用で髪が抜け、買ったウィッグも似合わないので、そのウィッグのカットを出張で頼みたいのだ、という。本人が人目を気にして美容院に行くどころか外出もしたがらないし、先輩がウィッグだけを美容院に持って行っても「ご本人がいらっしゃらなければ、イメージが…」と難色を示されるというのだ。
よくよく聴いてみると、それは先輩の知り合いどころか、最愛の奥様だった。気さくな先輩がほんの半年前の結婚式に呼んでくれた時に俺もお目に掛かっていた、あのきれいで笑顔のかわいらしい奥様。
美容室の、それも店長職だから、俺も暇なはずがない。けれども、憧れの先輩の大切な方のための頼みを断るのは男じゃない。どんな無理をしてでも叶えたい。喜んでもらいたい。
「いつ伺いましょうか。」
気づいたら俺の口はそう動いていた。
しあわせの絶頂に見えた結婚式、新郎新婦の記憶。誰もがうらやむ美男美女カップルだったあのふたりは、深夜に美容室を閉めて伺ったそのお宅にはいなかった。
出張に来た俺に姿を見せたがらず奥で泣いている奥様。いいかげんにしろと怒鳴る先輩。しばらく待っていると奥様もようやく出てきてくれたけれど、体の支え方がそれでは痛いと先輩に泣きながら訴え、また怒鳴り返されていた。
再会した奥様は、俺の知っているあの姿から懸け離れていた。確かに毛髪はほとんど残っていない。眉毛すらない。顔もむくんでいる。
けれどもそんな容姿以上に痛々しかったのは、先輩とのやり取りから見える心のほうだった。
夫の精一杯の愛情や労りが受け取れないほどに荒んでしまった心。
女性なのだ。美しかった容姿が短期間でみるみる変わってゆくことで、どれほどの自信を失ったことだろう。しあわせと希望に満ちて見えた未来が目の前で崩れてゆく現実に、体の痛みばかりか心の痛みがどれほど加速していったことだろう。
そんな奥様を支える先輩の方も疲れ果て、愛する相手に怒鳴り声を上げてしまう毎日だったのだろうか。
俺にはいったい何ができるのだ。
いや、違う。それは見当違いだ。
「俺に」依頼してもらえた仕事が目の前にあるじゃないか。
俺はカットをする。
医者でも本人でもないのだからがんは治せないかもしれない。夫婦仲を改善するカウンセラーでもコンサルタントでもない。
けれども、俺はカットをするのだ。
目の前の女性を最高にかわいく、美しく、カットひとつで変身させるのだ。
それは、本当は変身などではなくて……、その方自身がもともと持っていた美しさをただ引き出すお手伝い。その方自身が本来の美しさを思い出し、もともと持っていた自信を取り戻すお手伝いなのだ。
営業後に始めたウィッグカットは、深夜にまで及んだ。なぜなら、もともとカットする予定だったウィッグ以外にも、投げ捨てられるように散乱している他のウィッグを発見してしまったからだ。
何度買っても似合わなかったのだろう…。先輩が奥様を思う気持ちを無駄にしたくなかった。
時間はかかるが、全てのウィッグを切り直したいと提案した。
目の前の奥様の表情が、声が、俺にこの仕事の喜びを教えてくれた。
俺のカットひとつで泣くほど喜んでくれた奥様。美しくかわらしい本来の自分を思い出してくれた奥様。そんな奥様の笑顔に、目頭を押さえて喜んでくれた先輩。
全神経を集中させ、疲労困憊したまま翌日職場に向かったはずが、不思議と心はとても清々しかった。
なんてすばらしい仕事をさせてもらえているのだろう。そんな今を支えている、これまでのすべての出会い、言葉、教育、環境……それらはなんて恵まれた、美しいものだったのだろう。
俺の仕事は、お客様の人生を変える仕事なのだ。
ずっしりと心に据えられたその想いが、その日からの俺の仕事を、人生を、支えることになった。ただ何となく惰性でやっていた仕事が、初めて「想い」を持って、主体的に取り組めるものに変わった瞬間だった。
掲載日:2017年03月17日(金)
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