16歳、高校1年生の終わり。
ふと気が付くと、私は暗闇の中にいた。
「私、死んだのかな?」
漠然とそんなことを考える。
そのうち、一筋の光が射してきて闇が晴れた。
最初に目に映ったのは、私を見て泣いているお母さんだった。
「(あ、生きてる??)」
白いベッド、白い部屋。
私は事故にあって、数日間意識を失っていた。
ICU(集中治療室)の中で、全身に包帯やビニールに巻かれていた。事故前後の記憶が全然ない。何が起こったのかよくわからない。ただ、自分が生きてるということにびっくりした。暗闇の中で、自分は死んだのだと思ってたから。でも、実際に生死の境をさまよったのは確かだった。
骨盤にひびがあるから動かないでと言われた。
骨盤にひび。……それだけで済んでるわけない。そんな気がする。
もしかしたら顔がえぐれてるかもしれない、身体のどこかが麻痺して動かないかもしれない。何があったのか覚えてないけど、こんな状態になるような事故だったんだから、何があってもおかしくないはず……。
そして、何気なく布団を動かそうとしたとき、私は両脚を失ったことに気づいた。
脚の傷口から菌が入って最悪死ぬかもしれない。生き延びるためには、脚を切るしかなかったらしい。ずっと布団の中に入ってたから、気づくのに時間がかかった。
あるはずの脚がない。もう、自分の脚で歩くことはできない。
ICUを出てからも、まともな生活を送れるかどうか保証できない。
脚が短すぎて、車いすに乗ってもまともに生活できないかもしれない。
もしかしたら寝たきりの生活になるかもしれない。
そう言われても、私は不思議と冷静だった。
普通だったらショックを受けたり、絶望したりしてしまうのかもしれない。でも、私は妙に納得してた。これだけの事故で、無傷で済むことはないだろうと思ってたから、むしろ自分が生きてることに対する感謝のほうが大きかった。
脚の切断、皮膚移植。左脚の骨が皮膚を貫通したりして、計5回の手術を受けたあと、私はリハビリ専門の病院へ移った。
自分で車いすから床に降りるのも一苦労。特に筋力が弱かったから、筋トレはすっごく大変。でも、辛いとか、辞めたいって気持ちは起こらない。
高校を卒業して専門学校に入ったら、1人暮らしをしようと決めてた。そのためには、脚がなくても1人で生活できなきゃいけない。1つでも多くのことを1人でできるようになりたい。
辛いとか、苦しいけど頑張る、なんて感覚はない。私にとって、自分がしたいことのために必要なことをするのは、ごくごく当然のことだから。点滴とか麻酔注射を刺すのはすっごく嫌だったけど……。嫌すぎて、手術のときは鼻から通すタイプの子供用の麻酔に変えてもらった(チョコレートの味がした)。
病院に4カ月、リハビリに4カ月、事故から8カ月が経って、私は退院した。だけど、自分用の車いすもまだできてないし、自宅もバリアフリー対策なんかこれっぽっちもしてなかった。それもそのはず、本当はまだ入院する予定だった。
入院生活が退屈なあまり、無理をいって自宅に戻った。脚がなくなっても、長いリハビリでも、落ち込むことはなかったけれど、しょっちゅう外で遊びまわってた私にとって、病院の中に閉じこもる生活は耐えられなかった。
退院した次の日から、以前と同じように遊びに行きはじめた。レストランでソファに座りたいと思ったら自分で移るし、ディズニーランドに行ったときも、自分でシンデレラ城の床に降りて写真を撮った。遊びに行く先で写真を撮るのが好きで、撮りたい構図のためなら車いすを降りる手間も惜しまない。頑張ってリハビリしたから、やりたいことは自分でやることができた。
それでも、高校の復学は難しかった。高校にはエレベーターなんてない。そのうえ移動教室が多くて、違う階にいくたびに先生4人がかりで運んでもらわないといけない。先生たちは快く引き受けてくれるけど、私は申し訳なかった。留年も確定していて、早く社会に出たかった私は、復学を諦めて特別支援学校に転入した。
脚がなくたって、私の夢は変わらない。テレビの大道具スタッフ。でもやっぱり、そう簡単にはいかない。中学のときから行くと決めていた専門学校は、エレベーターはあるけど、車いすじゃ入れない教室があるらしい。
車いすで重いものを運べるだろうか。高所作業は?ケーブルだらけの現場の中で動けるかな……。物理的な制約を考えると、大道具の仕事はやっぱり難しい。それでも車いすを理由に夢を諦める気にはぜんぜんならない。仕事のこと、進路のことを自分でたくさん調べた。先生にも助けてもらって、東京の専門学校のwebデザイン専攻に行くことに。パソコンをいじるのはすっごく苦手だったけど、デザインや色彩の勉強をすれば、大道具の仕事に対してプラスになると思ったから。
専攻は違っても、目指すところはブレなかった。