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キッカケインタビュー

死に向かっていま生きるということ――脳萎縮を抱えたある男の生きざま。

平川翔(ひらかわ しょう)

整体師/講演家

この鍵人のコンテンツ:

キッカケ記事

いま何やってるの?
余命宣告を覆すつもりで全力で生き、その生きざまを講演などの場でお伝えする仕事をしています。整体師の仕事は出張整体という形でおこなっています。

家族のために必死に生きてきた平川翔さん。ある出逢いが荒んでいた平川さんの心を癒やし、もう一度夢を掴み直そうと生きるキッカケを与えたのですが……波乱万丈なその半生を振り返ります。

キッカケ①:しあわせな家庭を取り戻すために。

「お父さんはね、昔、バレーでオリンピックに出るかもしれなかったんだよ。強化選手だったの」

父がバレーボールをしていたと知ったのは、小学4年の終わりだった。
喘息を持ちながらも、サッカーや水泳との掛け持ちで長野県の地元のジュニアチームでバレーも楽しんでいた僕。
サッカー選手になるのが夢だった。父も応援してくれていた。
そんな父が、僕と同じバレーをしていた、それどころかオリンピックの強化選手だったなんて。

「お母さん!だったら僕が代表選手になる。バレーでオリンピックに行くよ!
 僕がオリンピックに出て、お父さんを連れて行くんだ!!」

それがじきに、妹と弟と僕、きょうだい3人の共通の目標になった。
3人のなかの誰かがバレーでオリンピックに行き、父を連れて行くのだ、と。


そのころから、家庭内の様子が少しずつ変わってきた。どうやら父の仕事が変わったらしい。
脚に障害があり専業主婦だった母も働きに出るようになった。
家族全員で囲むのが楽しみだった食卓、その品数が少しずつ減っていった。そもそも父と母の揃うことが減った。
バレーシューズが傷んでもなかなか買い換えてもらえなくなった。
次第に、両親が言い争うように。「今月の生活どうするの」いさかいの原因はいつも同じだった。

家族団欒の優しい時間、しあわせな家庭。当たり前だと思っていたものが形を変えてゆく。


中学では担任やバレー部の顧問とモメたり、不登校したりした。それでもバレーだけは続けていた。
授業は受けず図書室や本屋にこもり心理学を独学、バレーをするためだけに中学に通った。
両親に「自分たちのせいでお前がつらいなら、離婚する」と言われたが、それだけはと思いとどまってもらって。

家族を元に戻すには、僕がオリンピックに行くしかない。そのために利用できるものは利用する。
傍にいてくれる人なんか要らない。人を利用するために心理学を猛勉強した。

バレーの全国大会常勝校が地元にあり、そこに進学。
ここでレギュラーになればオリンピックへの最短コースだ……やっと目的が達成できる!!

だが、その年の9月、僕は肺炎を発症し、呼吸器系の状態が悪くなり入院。

「もう、バレーは諦めて。体育も、自転車通学も、重たいもの運ぶのもダメだよ」


しあわせな家族を取り戻すための唯一の手段として握り締めていたバレーボール。
それを失ってしまった。ほかにしたい事なんてなかったのに。バレーしか見てこなかったのに。
これまでの人生、何だったんだ。僕はこれまで何をしてきたんだ。これからいったい何をして生きてゆけば……。

キッカケ②:守ろうとしたものが壊されてゆく。

バレーができないのにその高校に通う意義はない。
僕は、金の掛からない形で街をぶらぶらしたり、家計を助けるためにアルバイトを始めたりした。

ある日、街中で思わぬ再会をした。かつてジュニアチームで僕を指導してくれた監督だった。
懐かしさに顔がほころぶ。
バレーを続けているかと聞かれ、正直に話すと、監督はこう言ってくれた。
「お前の培ってきた知識を後輩のために教えに来てくれないか?」


それから僕は、指導者としてジュニアチームに関わることになった。
バイトをしながら、卒業だけはするために高校にも通いながら……、バレーを教える時間が僕の救いだった。

大人のことは信じられない。けれども、子どもたちはまっすぐ僕の目を見てくれる。まっすぐぶつかってくれる。
もう叶えられない夢を後輩に託すようなおもいがあった。
できなかった事ができるようになる。勝ったり、上の大会に進んだりする。彼らの成長が純粋にうれしかった。



「お父さん!お父さん!?お父さん!!!!」
それは、突然のことだった。僕より体の大きな父が目の前で突然うずくまり、立ち上がれなくなったのだ。

救急車に付き添って行くと、その場の検査でがんだと言われた。
「来るのが遅かったら危なかったよ。自覚症状もあったんじゃないか」
通院に掛かる費用を子どもたちに、と症状を我慢していたのだという。

父が入院して数日後。母が、僕に改めて父との離婚を切り出してきた。
「母子家庭になれば、経済的にたくさんメリットがあるの」
妹と弟は了承済みだという。もう反対はできなかった。

父を除いた4人ですぐに引っ越し、数日後。父が倒れて1週間も経っていなかった。
今度は母が倒れた。自律神経失調症。
幸い母は1週間ほどで退院できたのだが、自律神経を壊したので寝込むようになってしまった。

妹も弟も義務教育。高2の僕は昼と夜のバイトを掛け持ちするようになった。年下のきょうだいを守るため、必死だった。
しばらくすると母も復職。僕は、昼間は高校、夜はバイトとバレーの指導という生活に戻ったのだが。

「ごめんね、翔。私のせいでごめん……ありがとう……」
そのころから、母が僕にそう言うようになった。
僕には耐え難かった。
妹や弟のためにやってきたんだ、お前のためじゃない。そんな事、言われる筋合いもない。
「お前らの都合で勝手に子ども作ったんじゃねえか。勝手に作って勝手に産んで、最後まで責任持って育ててもくれない……」
母は反論もせず泣くばかり。泣けば許されると思ってんじゃねえよ……!!!
母の顔を見ると怒鳴ってしまう。バイトや指導が終わると、バイト仲間や指導者仲間と夜通し時間を過ごすようになった。

それでも、バレーの指導は続けていた。僕の良心をかろうじて保つ命綱のようなものだった。


高校卒業後しばらくして、バレーの指導者として先輩に当たる人に、事業立ち上げに誘われた。
地元は離れることになる、指導もできなくなるけれど……荒れていた僕を支えてくれた人でもある彼の役に立ちたかった。
夢は子どもたちに託せば好い。家は出ても、お金を送れば好い。

二十歳の年だった。県北に引っ越し、ようやく事業も軌道に乗せたころ、母から電話が掛かってきた。
「翔……お願い、帰って来て……」
子宮がんで、子宮を摘出するのだという。

ようやく何かひとつ叶えられると思った矢先、僕は母のもとに戻った。
「どんだけ僕の夢潰す気だ。どんだけ人の人生邪魔すれば気が済むんだよ!?」

高校を卒業した妹は家を出ていた。帰って来た僕は母につらく当たることしかできない。
そして今度は、肺に穴が空いて僕が入院。止められていたバレーを、指導の範囲内とはいえ続けていたからだった。
そんな体であることすら、母のせいだと思えてならなかった。お前がもっと丈夫に産んでくれてたら……!!!

いったいどこで間違えたんだ。僕の何が悪かったっていうんだ。
守ろうとしたもの、叶えようとしたものが、自分には力の及ばない何かのせいで壊されてゆく。
八つ当たりだとわかっていても止められなかった。母を呪い、父を呪い、思いどおりにならない自分の人生を呪うことしかできなかった。

キッカケ③:自分のための夢を見つけて。

退院した僕は、知り合いの紹介である居酒屋に面接に行った。
弟に頼まれて高校のバレーチームの指導をする時間を考えると、両立できるのが居酒屋でのバイトだけだったのだ。

言われた時間に店に行くと、そこには品の良さそうなおばさんが。社長の奥さんだという。
その女性の澄んだ瞳に見つめられると、不思議な感覚に陥った。そわそわするけれど、心がじんわり温かくなる……。
気づけば僕は、これまで人には話してこなかった身の上の話をしていた。
生い立ちのこと、バレーのこと、けれどもそのバレーを失ったこと、
家族を修復しようとしてきたのに母につらく当たることしかできない現状。
「それでも、バレーだけは、指導だけは続けたくて。そのためにここで働かせてもらえたら……」

奥さんは、泣いていた。キレイな両目からこぼれるキレイな涙、涙、涙。はらはらと泣きながら、奥さんは僕の手を取り、
「本当に、苦労してきたのね」
そう言って、僕の頭を撫でた。

強がってきた何かの崩壊した瞬間だった。人前で、僕は初めて泣いた。堰を切ったように。
何が起こっているのかわからなかった。
何やってんだ、面接に来たのに、面接官とふたりで泣くなんて。イイ年した男が泣くなんて……。



僕はその居酒屋で働き始めた。社長と奥さんは、仕事中は互いに厳しいが、仕事を終えると仲睦まじい夫婦だった。
初めはつらかった。僕の欲しかった、取り戻せなかった理想の両親像。まして、その二男が僕と同い年だという。
「翔は息子みたいだ」
たいそうかわいがってもらった。

「お前はこれまで本当に、本当にいろんな経験をしてきたから、もっといろんな経験をしなさい。いろんな大人を見なさい。
お前が見下してるような大人ばかりじゃないよ。すごい大人なんていくらでもいるから」
サーバーグランプリ、居酒屋甲子園……。普通にバイトしていては経験できないようなイベントやセミナーに連れて行ってもらった。
店のためということももちろんあるが、僕のためを想ってそこまでしてくれるふたり。
「父さんと母さんも……僕には見えなかったけど、僕たちのために頑張ってくれてたのかな……」

ある時、その居酒屋のコンサルティングに入っている方のセミナーに連れて行ってもらった。
そこには、常識や制約に囚われず、本気で夢を語り熱く生きる大人がいた。

子宮がんで倒れてから母は働いておらず、弟は学生。僕の稼ぎで家族の生活を支えている現状だ。
それでも、「何の制約もなければ、僕はどう生きる?今日何をする?」

翌日、僕は居酒屋を月末で辞めると伝えた。
「とうとう見つかったんだね、したい事が……。誰かのための夢じゃなくて、翔自身のための」
ふたりは涙ながらに送り出してくれた。「疲れたらいつでも帰って来なさい」という言葉とともに。



スポーツ体罰で悪評の立ってしまっている長野県。長年現場にいて、指導者の言葉の暴力も見てきた。
うっすら抱いていた、バレーの指導をしながら子どもたちのケアのできる仕事がしたいというおもいを、行動に移すことに。
お金を貯めて整体の学校に通い卒業、自分で作ったバレーボールチームの指導をしながら整体の仕事を始めた。
3年ほど勤めて知識や経験を得、2016年6月に独立。
オープン前日に両親を店に呼び、「いろいろあったけど、あなたたちの息子でよかった」と初めて伝えた。


その間、自分のチームも成長し、長野県代表として東日本大会や全国大会にも出られるように。
そのたびに父に報告に行った。
「オリンピックほどじゃないけどさ、今度こんな大会に行くんだよ」

望んだ形とは違うけれど、“5人で暮らすしあわせな家族”ではないけれど。

僕なりに掴んだしあわせの形。充実した日々だった。


少し気になる事はあった。
独立の構想を練り始めたころから、人と“言った・言わない”の口論をすることが増えていたのだ。頭がぼおっとすることも。
ただ、やりたい事のために突っ走ってきた僕は、それをおおごとと捉えていなかった。
目標のためにあれこれ考えているから、頭が疲れているのだろう。

ある日のこと。
施術したばかりのお客さんのカルテを作ろうと机に向かった時だった。

「………!?」
何ひとつ思い出せなかった。直前の1時間の会話の記憶がすっぽり抜け落ちていたのだった。


記憶をつかさどる海馬が収縮している。原因不明の病気だった。

キッカケ④:誰もが迎えるその時まで。

「記憶がなくなるのが先か、脳死が先か……わからないね。20代で発症する脳萎縮は進行が早いから、長くて35歳でしょう」

淡々と言われた。他人事のようだった。
余命宣告というのは、ドラマなんかで見聞きする「あと3週間」とか「持って3,4ヶ月」とか……そういうものだと思っていた。
「余命はあと7年」
実感を伴って受け止めることができなかった僕。ふと振り返ると、付き添って来ていた母が涙をこぼしていた。

あの居酒屋の奥さんの涙と同じ、キレイな涙。それを目にした時、ようやく僕は事を認識した。
「僕が死ぬって言われたのか」


いくら検査をしても原因がわからない。長野県内はもちろん、東京と静岡の病院もたらい回しにされた。
神経内科と脳外科で異常がなければ精神科にと言われるが、心理学を学んできた僕なので精神科医と喧嘩になる。
何日も拘束されて脳波を取ったり通院したりする日々。そのストレスからか、頭痛もひどくなった。

疲れ果てた僕の心にふと浮かんだのは、あの居酒屋の社長夫妻の顔だった。
「疲れたらいつでも帰って来なさい……」



もう何年ぶりになるだろう。店をふらっと訪れた。
「7年以内に死ぬんです。原因もわからなくて、不安で、記憶なくなることが怖くて……みんなに忘れられちゃうことが怖くて……」

ふたりは涙ながらに聴いてくれた。そして、社長は最後に笑って言った。
「だいじょうぶだ。お前は必ず死ぬ。でも、俺も死ぬ」
ハッとして社長の目を見る。
「俺たちが死んでも、俺たちのおもいや理想が誰かの心に残ってれば、俺たちは……本当の意味では、死なないんじゃないか?」



僕は、自分の経験とおもいを伝える活動を始めた。

僕は怖かった。いつか記憶がなくなること、7年以内に死ぬこと、死んでしまったら自分という存在が忘れられてしまうこと……。
けれども、抱えている状況は皆同じなのだ。死ぬのが7年以内と決まっていないだけで。

誰もが死に向かって生きている。大切なのは、その瞬間に向かっていまいかに生きるのかということ。

自分の状況をSNSで素直に語ると、培ってきたご縁から次々と講演の提案や依頼が来た。
折も折、余命宣告された翌2017年の2月には、店が火事でなくなってしまった。
それ以降整体の仕事は出張整体に切り替え、全国どこへでも飛んで行けるようになったいまは講演の仕事に全力で取り組んでいる。



誰もが限られた人生のかけがえのないいまという時間を生きている。
余命宣告があろうがなかろうが、病気や障害があろうがなかろうが、問いは同じ。
いまこの瞬間をいかに生きるか、誰と何をして過ごすのか、どんな生きざまで誰に何を残すのか、という問いは同じ。

大切な人たちのことを忘れたくないから、仕事や通院の合間を縫い全国の友人たちに会いに行った。病気のことは話さず。
僕が会いたいから会いに行くのに、会う人会う人「来てくれてありがとう」と言ってくれる。
「僕が僕として生きて、したい事をするだけで、誰かに貢献してるのかもしれない」
そう。僕らが全力で生き、したい事を悔いなくするその姿が、誰かの役に立ち誰かの希望になっているのだ。

必要としてくれる人がひとりでもいれば、僕は僕のことを話す。僕という命を使う。
それで誰かが笑顔になってくれるなら。僕という人間を覚えて生きてくれるなら。

あなたがどんな状況であろうと、たとえ余命が短かろうと、その命をめいっぱい輝かせることはできるよ。
ぜひともそうしてほしい。あなた自身のためにも、あなたの大切な人たちのためにも。
その勇気が持てなければ、僕の話を聴きに来てください。待っているから。僕があなたの背中を押すから。



ようやく掴んだ僕のKeyPageが、あなたの一歩踏み出す勇気になることを信じて。

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掲載日:2018年01月19日(金)

鍵人No.0093

平川翔(ひらかわ しょう)

1988年、長野県生まれ。 県内の高校在学中からバレーボールチームの指導をおこない、整体師の資格を取り2016年に「東洋スポーツ整体 憩-ikoi-」をオープン。同年原因不明の脳萎縮で余命7年と宣告され、2017年、その生きざまを伝える講演家としての活動を始める。

東洋スポーツ整体 憩-ikoi- HP: https://www.facebook.com/ikoi611

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