「記憶がなくなるのが先か、脳死が先か……わからないね。20代で発症する脳萎縮は進行が早いから、長くて35歳でしょう」
淡々と言われた。他人事のようだった。
余命宣告というのは、ドラマなんかで見聞きする「あと3週間」とか「持って3,4ヶ月」とか……そういうものだと思っていた。
「余命はあと7年」
実感を伴って受け止めることができなかった僕。ふと振り返ると、付き添って来ていた母が涙をこぼしていた。
あの居酒屋の奥さんの涙と同じ、キレイな涙。それを目にした時、ようやく僕は事を認識した。
「僕が死ぬって言われたのか」
いくら検査をしても原因がわからない。長野県内はもちろん、東京と静岡の病院もたらい回しにされた。
神経内科と脳外科で異常がなければ精神科にと言われるが、心理学を学んできた僕なので精神科医と喧嘩になる。
何日も拘束されて脳波を取ったり通院したりする日々。そのストレスからか、頭痛もひどくなった。
疲れ果てた僕の心にふと浮かんだのは、あの居酒屋の社長夫妻の顔だった。
「疲れたらいつでも帰って来なさい……」
もう何年ぶりになるだろう。店をふらっと訪れた。
「7年以内に死ぬんです。原因もわからなくて、不安で、記憶なくなることが怖くて……みんなに忘れられちゃうことが怖くて……」
ふたりは涙ながらに聴いてくれた。そして、社長は最後に笑って言った。
「だいじょうぶだ。お前は必ず死ぬ。でも、俺も死ぬ」
ハッとして社長の目を見る。
「俺たちが死んでも、俺たちのおもいや理想が誰かの心に残ってれば、俺たちは……本当の意味では、死なないんじゃないか?」
僕は、自分の経験とおもいを伝える活動を始めた。
僕は怖かった。いつか記憶がなくなること、7年以内に死ぬこと、死んでしまったら自分という存在が忘れられてしまうこと……。
けれども、抱えている状況は皆同じなのだ。死ぬのが7年以内と決まっていないだけで。
誰もが死に向かって生きている。大切なのは、その瞬間に向かっていまいかに生きるのかということ。
自分の状況をSNSで素直に語ると、培ってきたご縁から次々と講演の提案や依頼が来た。
折も折、余命宣告された翌2017年の2月には、店が火事でなくなってしまった。
それ以降整体の仕事は出張整体に切り替え、全国どこへでも飛んで行けるようになったいまは講演の仕事に全力で取り組んでいる。
誰もが限られた人生のかけがえのないいまという時間を生きている。
余命宣告があろうがなかろうが、病気や障害があろうがなかろうが、問いは同じ。
いまこの瞬間をいかに生きるか、誰と何をして過ごすのか、どんな生きざまで誰に何を残すのか、という問いは同じ。
大切な人たちのことを忘れたくないから、仕事や通院の合間を縫い全国の友人たちに会いに行った。病気のことは話さず。
僕が会いたいから会いに行くのに、会う人会う人「来てくれてありがとう」と言ってくれる。
「僕が僕として生きて、したい事をするだけで、誰かに貢献してるのかもしれない」
そう。僕らが全力で生き、したい事を悔いなくするその姿が、誰かの役に立ち誰かの希望になっているのだ。
必要としてくれる人がひとりでもいれば、僕は僕のことを話す。僕という命を使う。
それで誰かが笑顔になってくれるなら。僕という人間を覚えて生きてくれるなら。
あなたがどんな状況であろうと、たとえ余命が短かろうと、その命をめいっぱい輝かせることはできるよ。
ぜひともそうしてほしい。あなた自身のためにも、あなたの大切な人たちのためにも。
その勇気が持てなければ、僕の話を聴きに来てください。待っているから。僕があなたの背中を押すから。
ようやく掴んだ僕のKeyPageが、あなたの一歩踏み出す勇気になることを信じて。
掲載日:2018年01月19日(金)
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