生まれは埼玉の赤羽。5歳までは南越谷で暮らしていましたが、父親の仕事の関係で海外に暮らすことになりました。
行先はアメリカの首都、ワシントンD.C.。
平日は現地の学校に通い、土曜日は日本語学校へ行く生活でした。何もかも日本とは違う風景や文化…。そんな環境で育ちながら、マイケル・ジャクソンの存在も初めて知りました。
当時は彼の全盛期とも言える『BAD』が流行していた80年代後半。子供だった自分の目に映った彼の印象は、大物、不思議な人、ミステリアスな人…。そんな漠然としたものでしたが、どこか気になる存在であったのは間違いありません。
そして、この出会いがのちに僕の人生に大きな影響を与えてくれました。
小学校3年生から再び日本での暮らしが始まります。
学校は好きでしたが、勉強はあまり好きではありませんでした。暗記ものよりも何かを思考し、人と意見交換する授業の方がやる気が増しました。その感覚は、高校受験の後に親に買ってもらったシンセサイザーにも表れていた気がします。コード進行などの細かい理論は知らなかったのですが、頭に思い浮かんだ音を一つ一つ打ち込んで、自分なりに作曲をしていました。
高校1年生の文化祭では、既に活動していた同級生によるバンドのヘルプメンバーとして加入させてもらい、ザ・ハイロウズのコピーを演奏していました。人前でのパフォーマンスはこれが初めてだったので、今まで経験したことのない楽しさを感じました。
ただ、それと同時に『コピーバンド』という内容に物足りなさも感じていました。苦労して練習し、披露して盛り上がっても、しょせんそれは他の人が作ったもの…。
「もっともっと万人が楽しめるクリエイティヴなことがしたい!」
そんなことを考えながら悶々とした日々を送っていた時、テレビで久々にマイケル・ジャクソンを目にしたのです。
ある日、家に帰ってきてテレビをつけたら、たまたまBSにマイケル・ジャクソンが出ていました。”Soul Train”という番組が流れ、正に今からマイケル・ジャクソンが出てくるシーンで、慌ててVHSの録画ボタンを押したのを覚えています。
そして、その時マイケルが披露したパフォーマンスは”Dangerous”でした。それは彼の楽曲の中でも特に、彼が生涯をかけてブラッシュアップしつづけ、完成度を高めていた曲。
「す、すごすぎる…」
それは半端ではない衝撃でした。
カリスマ性、クオリティともにとても素晴らしいパフォーマンスで、録画したものを何回も何回も観ました。それからどんどん好きになっていき、1シーンだけ真似をしてみることから始まり、やがて2シーン、そんな調子でどんどん真似していました。
そして高校の教室で、クラスメイトに何気なくムーンウォークを見てもらいました。
「これ、できてる?」
すると、「おおー!」と予想を越える反応が返ってきました。
照れくさいような、嬉しいような気持ち。
マイケル・ジャクソンのような不思議でカッコイイ動きはみんなを喜ばせることができる!そんな感覚になり、より一層真似をするようになりました。
これをキッカケに、マイケルのダンスパフォーマンスに陶酔するようになりました。
掲載日:2018年11月24日(土)
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小川真(おがわ まこと)
映像ディレクターとして活躍中の小川真さん。マイケル・ジャクソンのものまねショーを中心としたパフォーマーとしての顔も持つ。実はこのパフォーマンスで培ってきたセンスと人脈が、彼の人生を大きく変えていた…