「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ」
R社には、そんな社訓がある。
この社訓の通り、自分を変えるべく、僕はガムシャラに働いた。
九州、四国、大阪と合計7年間勤めることになるこの会社で、僕は社会人の基礎から、営業ノウハウ、マーケティング、ビジョンを描くこと、仕事にワクワクすることまで、全てを叩き込んでいただいた。
今の仕事スタイルの基本は、全てここで学ばせていただいたと言っても過言ではない。
身に余る賞も数多く頂いた。
もちろん大変なことも多かった。気持ち的にしんどいことも多かった。でも、だからこその学びと成長が確かにあった。
入社して3年が経ち、九州から四国に異動をし、そんな価値あるアグレッシブな日々を過ごしていた時、僕の人生を大きく揺るがす事件が起こる。
2012年5月13日、ひとりの親友が、命を落としたのだ。
彼の名前はケンジ。
この日は母の日だった。母からもらったその命を、彼は母の日に亡くした。
彼が住んでいた伊豆での、バイク事故だったそうだ。
それから僕にとって母の日は、母親に感謝をする日であるとともに、親友を想う日になった。
誰から報告をもらったのか、その時自分がどこにいて、何をしていたのか。
落ち込んだのか、泣きわめいたのか、そういったことが全く思い出せない。
そこだけ時が止まってしまったかのような、現実で起こったことなのか疑わしいほど衝撃的な出来事だった。
確かなのは、僕はその時四国にいて、彼が亡くなった伊豆にはいられなかったということだけだった。
しかし、彼と最後に話をした夜のことは、はっきりと覚えていた。
2011年。彼の家で飲んで、語り明かした日があった。その時、彼はおもむろに、僕に一つのマグカップを渡した。それはハワイのものだった。
「はい、これ土産。ホノルルでハーフマラソン走ってきた。フルは取っておいたから、“20代のうちに”一緒に走ろう。」
続けて彼は、こんなことも口にした。
「今はまだ独身だけど、将来自分の家族をもった時、そうだなあ…40歳にしよう。40歳になった時、いつものメンバーで海外に行ってさ。わいわいやりたい、第2の成人式をやろう。」
僕らはこの2つの約束をしたのだ。
その日飲んだ赤ワインが、とても美味しかった。
僕が地方勤務だったこともあり、ケンジに会うのは年に1、2回。
・・・そして翌年、久々に会ったその場所は、彼の葬式だった。
彼がこの世からいなくなって僕は、彼とした約束を「果たせなかった約束」として蓋をしてしまった。
その蓋をこじ開けることができないほどに、日々めまぐるしく働いていた。今思い返すと、仕事に没頭して、彼への悲しみを忘れようとしていたんだと思う。
その後大阪に転勤をして、自分のチームを束ねる立場になり、メンバーにも恵まれ、さらに仕事にやりがいを感じていた。
九州、四国とは全くもって異なる大きな都市。29歳での退職に向けて、僕は副業を始めた。大阪だけあって、社外の人脈を求めに行くと、それだけ素敵な出会いがたくさんあった。
そんな中で出会った、ひとつのビジネスコミュニティ。
そこで開催された懇親会の場で、ふとしたきっかけで僕は、40代の尊敬している男性に、ケンジの話をした。
その先輩は、うんうんと深く頷いて話を聞いてくれた。
そして、静かにゆっくりと、こう言ってくれた。
「祐輔は彼がいなくなって寂しいと思うけど、それでも祐輔は生きているから。
だから…生きているから、”友達孝行”はできるよね。」
その温かい言葉をもらって、僕は涙が止まらなくなった。蓋をしていたケンジとの約束が、一気に強い意志とともに、僕の心のど真ん中に舞い戻ってきたのが分かった。
自分の中で、腹が決まった瞬間だった。
そして、その言葉をもらった翌日、R社に対して退職する意思を伝えた。
しかし、僕の中で退職にあたって、3つの壁があった。
1つ目の壁は上司。僕は上司に対して、退職の意思を伝えた。日頃からお世話になり気にかけていただいていた、文字通り”パワフル”な女性の上司だった。
普通の会社であれば頭ごなしに、「独立してもうまくいかない」、「今の仕事はどうする」、「今の仕事で上を目指せ」。当たり前にそう言われるかもしれない。
でもその上司から返ってきた言葉は、意外なものだった。
「そうか、だからか。」
どういうことか、僕は尋ねた。
「最近日置が特に楽しそうに働いてると思って見ていたから。今の日置はまるで、“好きな玩具を見つけたこども”みたいな無邪気な目をしてるから、大丈夫。そのまま突っ走りな、応援する。」
そう背中を押してくれた。
もともとR社は、独立、起業をする文化が根付いている。だから意思のある退職は、祝福される雰囲気がある。それを感じさせてくれる言葉だった。
そして、上司ひとりひとりに、直接意思を伝えに行った。強く引き止められることもあったが、もう意思は固まっていた。
2つ目の壁は、社長だった。
丸2年間、社長直下の育成塾に参加させていただいていた縁もあって、本当にお世話になりっぱなしの方だった。黙って話を聞いてくれた社長。
「その気持ちは麻疹(=一過性のもの)じゃないのか?」
聞かれたのはこれだけだった。
自分で決めた固い意思であることを告げると、社長も惜しみながらも、背中を押してくれた。
最後、3つ目の壁は、両親だった。
大学まで行かせてもらって、そのまま建築の道に進むかと思えば、全く別の道に進んだこと。そして次にその道を断ち、独立をする道を選ぶこと。自営業をしている父の背中も見てきたので、調子が良い時もあれば、そうでない時もあることを間近で見てきた。
3人での食事の機会を設けて、心の内を伝えた。思ったとおり、簡単に首を縦に振ってもらえはしなかった。
それでも、もう僕の意思は固まっていた。
昔から両親に、「人に迷惑をかけないこと」、「後悔しないこと」、この2つを教えられてきたことを思い出した。
「積ませてもらった学歴・キャリアのある自分は、言ってみれば自慢の息子だったのかもしれない。R社は本当に大好きな会社だった。でも今、全身全霊をかけてそうじゃない”自分”で勝負をしていきたい。ごめん。自慢の息子、辞めても良いかな?」
当時29歳の僕にとってこの言葉は、それまでひとつひとつ積み木のように積み上げて高くしていった自分の「経験」や「実績」、それらを両親の目の前でぶち壊す、そういうことだった。しかし、勇気を振り絞り、まっすぐ両親を見て、話をした。
こうして、3つの壁を超えることができたのだ。
最初に上司に話をしてから、実際の退職までは、半年の時間がかかった。仕事の中での役割があったからだ。この半年は、まわりの方への感謝の気持ちが溢れて止まなかった。
僕の中で3つの壁などと思っていた存在こそが、まさに、”応援してくれる力”になってくれる、かけがえのない存在だった。
こうして僕は再び、前の扉を開けるために後ろの扉を閉じて、企業のキャリアではなく起業のロマンを選択した。
恐らく会社にいる道のほうが舗装をされた安全な道だったと思う。それでも、独立をしてどろどろでぬかるんでいる道を進むことに、意義を感じたのだった。
それから大阪を離れ、東京で新しい生活を始めたのは、2016年の春のことだった。