物心付いたころから、あまりよく見えなかった。
自分の目でしか見たことがないから、人と自分の見え方がどのくらい違うのかもわからないのだけど。
視野が狭くて、薄暗い夜道だと本当に見えづらくて。高校生の僕は、自分なりに調べて母に病名を尋ねてみた。
「なあなあ、僕の病名って、“網膜色素変性症”いうん?」
「そやで」
病名を確かめるだけのつもりだった僕の胸をキュッと締めつけた、母の言葉。
「ごめんね、そんな体に産んで」
その日から僕は、目の病気のせいで不自由していることを親に見せなくなった。あんな言葉を、二度と母に言わせたくなかった。
普通の人として生きよう。人より視野は狭くても完全な盲ではない、見えていることには変わりないのだから。
傍目には健康体、言わなければ視覚障害など気づかれもしないのだ……。
真面目を絵に書いたような子どものころから、怒られたり叱られたりすることへの恐怖心が強かった。
しっかり勉強して良い学校に進み良い会社に入ればしあわせになれる、そんな刷り込みを疑うこともなく大学に進学。
卒業を控えても、したい仕事も何もなかった。友人が営業職に進んだからという理由で、僕も事務機器の営業の仕事に就いた。
「セールスお断り」
街のあちこちで見掛けるあの張り紙、あの言葉が、僕に向けられる日が来るなんて。
断られる、拒絶される、迷惑がられる、怒られる……その連続。僕には耐えられない仕事だった。
吐き気などの体の症状も出てくる。4ヶ月ほどでその会社を辞めた。
「何のために大学まで出したんか……プータローになって」
両親からのプレッシャー。パチスロに走ったり資格取得したり再就職したりと迷走した。
ある日、昔の友人から電話を受けた。
「お前、夢とかあるか?」
「……そんなんないよ」
権利収入という収入の得方、資産の築き方を初めて知った。ネットワークビジネスへの勧誘だった。
「良い会社に入ればしあわせになれる」そう言い聞かされてきた僕。
収入が大きければ大きいほど叶えられる事が増え、しあわせが大きくなるような気がしていた。
会社員をしていては到底稼げない額でも、プロセスをきちんと積み重ねれば稼げるようになる、そんなシステムに希望を見た。
僕はその世界に足を踏み込んだ。
人に商品を勧める仕事、一度挫折した営業の仕事だと気づかずに。
数年後、800万の借金を抱え、僕はその業界をあとにした。
返済のために職を転々としながら、僕は、人にものを勧めることのできない自分を変えなければ何も変わらないのだと思った。
自己啓発の本を読んだり、セミナーに出たり。自分を変えようと動いた。ダメな自分さえ変われば、きっとしあわせになれる……。
「目の病気があるからこそ経験できる生き方があるはずだよね」
そう言われた時、僕はその言葉を頭で受け止めた。
「せや!この病気やからこそしあわせに生きれるんや!!」
そう思える自分にならなければ、永遠にこのままだ。こんな人生は嫌だ。こんな人生は変えたい。
そう思える自分になるために……“思うべき事”を、僕は自分自身に言い聞かせ続けた。
「この病気があるからこそしあわせなんや……」
「目が不自由やからこそ生きれる人生を生きてるんや……」
いま、何が食べたいのか。気づけばそんな事すらわからなくなっていた。
「あと一歩で楽になれるんやな」
御堂筋線のホームに立ち、そんな事を思いながら、なんとか踏みとどまる……そんな日々だった。
掲載日:2017年12月30日(土)
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