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キッカケインタビュー

変態と呼ばれても、自分の表現を追い求めた波乱万丈のダンス人生。

山本裕(やまもと ゆう)

現代舞踊家

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キッカケ記事

いま何やってるの?
今は日にちが迫っている公演に向けて奮闘中です!2017年3月16,17日に都民芸術フェスティバル、東京芸術劇場にて「ベートーヴェン交響曲第九番~歓喜の歌~」を上演します。愛と生命、家族の記憶が散りばめられたスペクタクルです。是非みなさま観に来て下さい(^o^)

個性を最大限に表現し、何があっても諦めなかったダンスで伝えていきたい事…

キッカケ①:ダンスへの興味、本格的に踊りを仕事として学んだ苦難の日々。

1982年2月25日京都にて僕は生まれた。
母は現代舞踊とバレエを教える講師をしており、僕はその母の教室に幼少から通っていた。父は仕事の関係で、芸能人やアーティストとの交流も深く、舞台・踊り・歌・政治や経済など、幅広いサブカルチャーや知識を持っていた。そんな父の影響で、ありとあらゆる刺激の機会を与えてもらい、そんな中で育ったからなのか…小学生の頃のあだ名は“変態”だった。

実際人前でものまねをしたり、目立ったりするのは好きで物怖じしない方だったが、ダンスに対しては全くやる気がなく、男でダンスっていうのがどうにも恥ずかしく、積極的に取り組むことはできなかった。


しかし、中学生くらいになってくると体も大きくなり、筋肉量に関わる回転とかジャンプなど、女の子よりも踊れるようになって、ダンスの楽しさが少し分かり始めたと同時に、調子に乗り始めていた。


「これは…もっと頑張れば誰よりもうまくなるんちゃうか…?!」


いつか辞めたいと思っていたダンスをどんどん好きになり、もっと色んなことを学び、本格的にダンスの世界へと足を踏み込んでいった。



中学生や高校生になると、クラシックバレエの国際コンクールなどでよく金賞を取っていた先生のスクールに通い、更にレッスンに励んだ。腹筋する僕の上でジャンプしたり、腕立てをしながら逆立ちしている時にお腹を殴ってくるなど、とてもスパルタな先生だったが、ダンス以外にも礼儀や人として大事なことを学ぶキッカケでもあった。


そんなある日、先生からこんなことを言われた…


「とにかく自分が下手やということを知れ。プライドを捨て、ゼロからどうしていくべきかを考えなあかん!」


調子に乗っていた自分には正直辛い宣告だった。しかし同時に、自分の力のなさを受け入れる努力が必要なことも知った。


そうやって無我夢中でダンスに食らいついたかいもあり、18歳の時にはダンスの仕事をもらえるようになっていた。とはいえ、家賃を払うことで精一杯の稼ぎ…。夜の9時から朝の9時までバイトして、10時からレッスン。12時からリハーサルをし、夕方の17時頃に帰宅。3時間ぐらい寝て、またバイト…


毎日睡眠不足で過酷な日々を送っていた。
ただ、夢を持って頑張っているのは僕だけじゃないと体に鞭打ち、励まし、なんとか頑張っていた。頑張るしかなかった。


それから1年、努力が実り、それなりの生活ができるくらい稼げるようになった。
しかしなぜか満足することができなかった。クラシックバレエはもちろん大好きだし尊敬している人もいる。でも自分にしかできない、可能性を秘めている別のジャンルに挑戦したいと思っていた。


「ダンサーや振り付け師も多く、現代舞踊のレベルも高い東京なら…!」


思い立ったが吉日、京都を飛び出していた。僕にはもうダンスしかなかった。


「きっと大丈夫やろ。うまくいかへんかったらいかへんかったでその時考えればいい!」


キッカケ②:数々の賞を取り、自分らしさを探求し続けた数年間。

上京して初めて生んだ家は、家賃2万6千円の風呂なしアパートだった。
親からの仕送りがあるわけでもなく、いつも食事はカップラーメン。タオルで体を拭いて汚れを落とす生活だった。踊りでの仕事に就くのもまたゼロからだったが、とにかくがむしゃらに頑張っていこうという決意は固かった。多少の苦労は覚悟している。


23歳を越えたくらいの頃から、コンクールで上位になったり、ダンサーとして活躍する場も増え、風呂付きの部屋に住むことができたりと、自分がやってきたことに対して目に見える成果がでた。文化庁の“新進芸術家国内研修員制度”の奨学金も取得し、そのお金でありとあらゆる舞台を観に行った。とにかく勉強に励む毎日だった。


『自分が下手だということを知れ』


あの時の師の言葉があったから、僕は妥協や満足をすることをやめ、向上心を持ち続けることができたのだろう。そんな中でずっと心に秘めていたことがあった。それは“自分にしかできない表現で世に立つ”こと。一番になんてなれなくたって良い。ただ、自分にしかできない表現で、現代舞踊をもっと面白くしたいと強く思った。



そう思い取り組んだ結果、選抜新人舞踊公演で新人賞を受賞することができた。
評価の理由は作品「モザイク紳士」においての“独自性豊かな表現”に対して。



自分が吐き出したいものを形にした時に認められたこの瞬間…物凄く嬉しかった。



上京してから通っていたスタジオの先生は、今でも僕の師である折田克子という現代舞踊家の方で、踊りの世界では実力を認められ、知名度もある…まさに天才。芸術肌で、生徒の意見を尊重し、やりたいようにやらせてくれた。とにかく生徒の表現したいものを否定せず、結果がどうであれ認めてくれる方だった。


舞台の上に立って1人で闘う方法や孤独と向き合う方法を教えてもらった。
そうして自立したダンサーが周りと力を合わせた時、大きな感動を呼び起こすことができるのではないか。と僕は強く思った。新人賞を取ってからは、自分の表現というものが実を結び、世の中から注目され、期待されるようになった。


ただ、ここでも葛藤はあった。どうして“変態”と呼ばれてしまうのか?複雑だった。


僕はただ自分の表現したいことをそのままやっているだけで、逆に僕からしてみれば、周りの皆が同じすぎて気持ち悪い。皆一皮剥けば自分の表現をしっかり持っている別の個体なのに、決められたルールの中に納まり、自分と違うものに対して偏見の目で見たりする。僕が追い求めているのは自由な作品と互いに認め合える信頼だ。


「変わっているのは僕じゃない!個性を表現しているだけなのに。」


そういった反骨精神から、新たに自分の作品を作るために、皆と同じ土俵に立ってみようとも思った。自分自身の進展のためにも、今までの自分の得意なものに頼らず、感性をなくしてみたりもした。何が正しいとかではなく、色々試した上で、やっぱり自分自身を表現していくことは大事だと。改めて思うキッカケになった。


キッカケ③:海外留学の後、ぶつかった壁との戦い

次に興味が湧いたのは海外での挑戦。
海外では自分はどのように見えるのか、居場所はあるのか。その答えを探したかった。文化庁の新進芸術家海外研修員制度に、幸せなことに1発合格!行き先をオランダに決め、1年間留学することになった。



ドイツやパリに行く人が多い中、オランダを選ぶのは当時珍しい事ではあった。
選んだ理由は、文化とか芸術を他の国から寛容に取り入れていて、国民性は自由奔放で思いついたことはなんでもやってみようという国で、代表的な『ネザーランドダンスシアター』という、イリキリアンというとても有名な振付家の影響で、オランダにはダンスの風みたいなものがちゃんと吹いていたからだ。


ここからは苦難の連続だった。
「僕のやっていることはいったいなんなのだ?意味がないのか?」様々な悩みが押し寄せ、落ち込んだ…それでも早くダンスはうまくなりたかったし、変わっていかなければいけない。せっかく掴んだチャンスだからと焦り、泣きながらもレッスンは休まず受けた。


そんな中でもたくさんの素敵な出会いはあった。


留学期間が終わってからヨーロッパの何カ国かを回り、そこで出会った人に色んなフェスティバルに招待して貰い、ソロでツアーを組んだりして仕事をしていくことで、帰国までにはとても素晴らしい音楽仲間が増え、ようやくオランダという国を好きになることができたのだ。留学でたくさんの事を学んできたけど、1番は音楽家の知り合いができ、多方面からの意見を聞くことができたのが良かった。ダンスとは違い、自由にできないと決まっていることもありつつ、自分を表現していかなければならなかったり、凄くシビアな世界を知ることができた。お互いのことを理解し、信頼関係を得て一緒に仕事をする。凄くいい経験ができたと、心から思う。

キッカケ④:続く表現力の模索…その中で新たに頑張るキッカケをもらった仕事。

留学中に、1つ夢ができた。


日常にある当たり前のものを作品にして、自分らしく表現してみたい。みんなに見て貰いたい。
オランダはチューリップが有名だから『花』という題材でやってみたかった。誰でも作品にできそうな題材。僕の心の中に描く花は差別や格差の無い社会、様々な花達が一同に介している楽園だった。それをどうやって表現できるか。挑戦したかった。


ただ、思いもよらない壁にぶち当たった。
体は鍛えられて帰ってきたものの自分らしさの表現がうまくできなくなっていた。モザイク紳士を作った時代は、なぜ何も考えずにあんな表現ができたのかとさえ思うレベルで、どんな作品を作っても、自分らしさを表現できている気がしなかった。体と気持ちがどうやっても繋がらないような感じで、凄く悩んだ。


そんな時、公演の前に1人の男性に声をかけられた。


「山本君!僕の息子は君のファンなんだ!今日会えて嬉しいよ。君の踊り、楽しみにしてるよ!」


舞台に立つのが怖くなった…この人の息子さんはきっと、オランダに行く前の僕の作品を見てくれている。ただ帰国してからの僕にはその頃の表現力がなかった。息子さんが好きな山本君はもうここにはいない、楽屋で大号泣した。28歳…それでもやるしかなかった。


キッカケ⑤:挑戦から学び、伝えて行きたいと思えたこと。

それからも『花』を主題にした作品はずっと作りたくて何度も挑戦をしていた。
そんな最中、現代舞踊の中ではベテランや実力のある振付家が任される大きな仕事として有名な都民芸術フェスティバルに、若手として抜擢され、振付家として携わることになった。即座にこの大舞台で是非『花』に挑戦したいと思った。これで自分が納得のできるものが作れなければ、諦めてもいい。自分には才能がなかったんだと落ち込む結果になっても、夢を叶えたかった。何とかして、実現させたかった。


実力、実績もある若手中心のダンサー16人、一丸となって、とても手ごたえのある素晴らしい仕上がりの作品が出来上がった。

=The color of flowers=

自分らしさはやっと返ってきた。



リハーサルを見学に来てくれた財団の方々も、いわば初めてのお客さん。
その人達が、感動して涙する程だった。自分が考えてたことは間違いではなった。結局は技術の粋に溺れることなく相手を思いやること、分かち合うこと。僕はこの作品と協力してくれたダンサー達、そしてお客様にもとても大切なこと教えて貰った。もう何も後悔はない。


公演前から評判も良く、テレビの取材なども来たりした。
もちろん僕の中では反省点はあるけど、凄く成果を上げることが出来た、次の年には前例のない2年連続での振付師の依頼を、協会からもらうことができ、新たな自信へと繋がっていった。


岡山県から、「オーケストラで作品を作らないか?」という内容の依頼を受けた。ベートーベン交響曲第九番~歓喜の歌~に載せるといったものだった。若手と高齢の年齢層の違いで家族や誕生をテーマにしたものを作った。



今度の都民芸術フェスティバルでは、この作品を20代から30代のダンサー20名で挑戦しようと思って活動している今、改めておもう事は、作品を作る上では、やっぱり人が生きないといけないなと。


自由にやらせてみて、自分のイメージと違う仕上がりになっても、その人が特別に見えるのは周りが追いついていないだけかもしれない。自分が周りとの温度差に悩んだ経験があるからこそ、自分と違う人をどうやって認めていくのかが大事だと僕は思っている。


自分たちの生きてきた証や環境がにじみ出てこそ面白い舞台は作れる。これからもその思いを大切に、新たなダンスの楽しみ方を生み出していきたい。

これが僕のKeyPage...


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掲載日:2017年03月10日(金)

鍵人No.0056

山本裕(やまもと ゆう)

新人賞、埼玉全国舞踊コンクール第1位、ダンスシアター賞(チェコ)など受賞。文化庁在外研修員(オランダ)。シャープなテクニックと独創的な振付には定評があり、現在は多くの都市や劇場主催の事業を担っている。
山本裕Facebook
https://www.facebook.com/yamamoto.yu.58

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