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キッカケインタビュー

無限の可能性を信じて――視覚障害のある詩人の挑戦の軌跡。

石本幸四郎(いしもと こうしろう)

言霊アーティスト

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いま何やってるの?
2017年、突然ひらめき、言霊アーティストから絵本作家に転身、手作りの絵本を4ヶ月強で1万冊販売。講演やワークショップも各地で開催。アタカマ砂漠マラソンに続き、ペルーのイカ砂漠マラソンも完走しました。

その言葉と生き方で多くの人に希望を与えている石本幸四郎さん。視覚障害を持ち、社会に出てからの挫折も繰り返した石本さんは、どのようなキッカケを経て生き方を変化させていったのでしょうか……?

キッカケ①:心の声を遠ざけて。

物心付いたころから、あまりよく見えなかった。

自分の目でしか見たことがないから、人と自分の見え方がどのくらい違うのかもわからないのだけど。


視野が狭くて、薄暗い夜道だと本当に見えづらくて。高校生の僕は、自分なりに調べて母に病名を尋ねてみた。

「なあなあ、僕の病名って、“網膜色素変性症”いうん?」

「そやで」

病名を確かめるだけのつもりだった僕の胸をキュッと締めつけた、母の言葉。


「ごめんね、そんな体に産んで」


その日から僕は、目の病気のせいで不自由していることを親に見せなくなった。あんな言葉を、二度と母に言わせたくなかった。

普通の人として生きよう。人より視野は狭くても完全な盲ではない、見えていることには変わりないのだから。

傍目には健康体、言わなければ視覚障害など気づかれもしないのだ……。



真面目を絵に書いたような子どものころから、怒られたり叱られたりすることへの恐怖心が強かった。

しっかり勉強して良い学校に進み良い会社に入ればしあわせになれる、そんな刷り込みを疑うこともなく大学に進学。

卒業を控えても、したい仕事も何もなかった。友人が営業職に進んだからという理由で、僕も事務機器の営業の仕事に就いた。


「セールスお断り」



街のあちこちで見掛けるあの張り紙、あの言葉が、僕に向けられる日が来るなんて。

断られる、拒絶される、迷惑がられる、怒られる……その連続。僕には耐えられない仕事だった。

吐き気などの体の症状も出てくる。4ヶ月ほどでその会社を辞めた。


「何のために大学まで出したんか……プータローになって」

両親からのプレッシャー。パチスロに走ったり資格取得したり再就職したりと迷走した。


ある日、昔の友人から電話を受けた。

「お前、夢とかあるか?」

「……そんなんないよ」

権利収入という収入の得方、資産の築き方を初めて知った。ネットワークビジネスへの勧誘だった。


「良い会社に入ればしあわせになれる」そう言い聞かされてきた僕。

収入が大きければ大きいほど叶えられる事が増え、しあわせが大きくなるような気がしていた。

会社員をしていては到底稼げない額でも、プロセスをきちんと積み重ねれば稼げるようになる、そんなシステムに希望を見た。


僕はその世界に足を踏み込んだ。

人に商品を勧める仕事、一度挫折した営業の仕事だと気づかずに。


数年後、800万の借金を抱え、僕はその業界をあとにした。



返済のために職を転々としながら、僕は、人にものを勧めることのできない自分を変えなければ何も変わらないのだと思った。

自己啓発の本を読んだり、セミナーに出たり。自分を変えようと動いた。ダメな自分さえ変われば、きっとしあわせになれる……。


「目の病気があるからこそ経験できる生き方があるはずだよね」

そう言われた時、僕はその言葉を頭で受け止めた。

「せや!この病気やからこそしあわせに生きれるんや!!」


そう思える自分にならなければ、永遠にこのままだ。こんな人生は嫌だ。こんな人生は変えたい。

そう思える自分になるために……“思うべき事”を、僕は自分自身に言い聞かせ続けた。

「この病気があるからこそしあわせなんや……」

「目が不自由やからこそ生きれる人生を生きてるんや……」



いま、何が食べたいのか。気づけばそんな事すらわからなくなっていた。

「あと一歩で楽になれるんやな」

御堂筋線のホームに立ち、そんな事を思いながら、なんとか踏みとどまる……そんな日々だった。

キッカケ②:生きている実感を掴んで。

「新規事業立ち上げるから来てくれへんか」

そんな時、起業していた友人に声を掛けられた。


うつ寸前という診断さえ受けていた僕。新しい事業に関わることに、夢や希望みたいなものを少しだけ思った。

これを最後の職にしよう……心にそう誓い入った会社は、僕の入社直後にリーマンショックの波の直撃を受けて業績もガタガタに。


モヤモヤしたものを抱えながら働いていた僕は、社長である友人の紹介で、ある社会活動家の名前を知った。

「“てんつくマン”?なんや、ギャグか?」


メールマガジン取ってみた。「天国をつくる」が活動名の由来だという。

映画を作るために吉本を辞め、NPO法人を作ったりゴミ拾いをしたり路上に座り込んで言葉を書いたり……。

変な名前……経歴も突拍子もないし……何考えてはるんやろ……。

いても立ってもいられなくなり、彼の作った映画の上映会とトークライブに足を運んでみた。


仮装しながらモンゴルの砂地に植林したり、カヌーのような舟で900kmの航海を成し遂げたり、

アフガニスタンの子どもたちのために何百人もの日本人がマフラーを編んで届けたり……。

「この世を天国にするために」という合言葉のもと、ど素人たちがいろいろな事に果敢に挑戦してゆくストーリー。

そんなさまを撮影した自主制作映画だった。そのストーリー、そしてその上映会に集う人たちのキラキラした目に圧倒された。

「……こんな生き方、あるんや」

ただ驚くばかりだった僕の心の奥に、小さな小さな声が聞こえた。ずっと僕から遠ざかっていた、本当の僕の声。


「こんなキラキラした生き方、してもええんや……」


会場のトイレに駆け込む。公共の男子トイレにはたいてい書いてある張り紙が、僕の目に飛び込んできた。

「一歩前へ」



僕は、ゴミ拾いを始めた。一歩前へ踏み出すために。


長時間拘束で、通勤に2時間掛かる会社。それでも駅から会社までの20分でゴミを拾うことくらいなら僕にもできる。


初日はゴミ袋3つがパンパンになった。

ものすごい量のゴミが落ちていたことに、ゴミを拾ってみて初めて気づいた。なかでも煙草の吸殻が多い。

すると、僕の横を自転車が通った。吸殻をポイッと捨てて。

断られたり怒られたりすることへの恐怖心が人一倍の僕。てんつくマンも「No」より「Yes」で社会を動かしてきた人だ。

こういう人たちに「捨てないでください」と言う以外に、何かアプローチできないだろうか……。


「せや!ゴミ拾いしとる僕と友達になったら、おっちゃんポイ捨てせェへんようになってくれるかも」


その日から僕は、挨拶をしながらゴミ拾いすることにした。

蚊の鳴くような声で始めた挨拶も、慣れてくれば気持ちよく声が出せるように。

続けていると、相手のほうから「いつもおおきに」と挨拶してくれる人、わざわざ車を停めて声を掛けてくれる人さえ現れるように。

通勤途中のコンビニに寄れば「いつもゴミ拾うてくれてるお兄ちゃんやんな」と言われ、コーヒーをおごってもらうことも。



街が少しずつキレイになっていくことに喜びを感じていた。

好きな事をしながら、人に感謝されたり顔見知りや友達が増えたりする。なんてしあわせな事だろう……!!!


何のために働くのか。しあわせとは何なのか。生きる意味とは。

何も見えないまま、親の言葉に従ったり借金返済の必要性に迫られたりして生きてきた人生だった。

そんな僕が、いま、好きな事をしてしあわせを経験し、分かち合っている………。


「天国は死んでから行くとこやない。つくるモンや」

てんつくマンの言葉を噛み締める。

せや。天国はつくるもの、生きて経験するものなんや。それは、こういうコトやったんやな……。

キッカケ③:自分の力を超えて。

自分の感覚や心の声を無視していたころ、他人の言う常識や理屈で生きていたころには見えなかったもの――

生きている実感ややり甲斐といったものを、ゴミ拾いをとおして掴んでいった僕。


もっと僕らしい事がしたい。僕の心は何をしたがっているだろう??心に尋ねると、その声が聞こえた。

「てんつくマンのやってきた、人の目を見てインスピレーションで言葉を書く仕事!僕もやってみたい!!」



800万円の借金を抱えた経験が、ある意味支えになった。

この先どんな挑戦をしても、あれよりつらい事はそうそうないだろう。

路上に座り込んで言葉を書くことは働きながらでもできるけれど、肚をくくって取り組みたかった僕は会社を退職。


……してから気づいた。

「路上に座って言葉を……そんなん、人が見たら何て思うやろ?」


人目が気になる。知り合いに見られたら恥ずかしい。警察に注意されたり怖い人に絡まれたりしたら……本当に怖い。

初めのうちは、敷物を広げて始めるまでに1時間以上モジモジしたり、広げられないまま帰ったりしていた。


けれども、それを理由にいつまでも縮こまりたくなかった。

「せや、一歩前へ進むんや!」

怖がりな僕はそれを逆手に取り、怖いおもいをせずに言葉を届ける方法を考えた。

許可をもらって居酒屋さんの敷地を使わせてもらったり、イベントに出店させてもらえるようにツテを頼ったり。

“路上詩人”と名乗ってはいたものの、なるべく路上に出さずに済むよう工夫しながらのスタートだった。


とはいえ、てんつくマンのようなぶっ飛んだ人と同じ事が本当に僕にもできるのか。緊張して言葉が出なかったら申し訳ない。

心配症な僕は、「あなたの目を見てインスピレーションで言葉を書きます」と看板を出しながら、

“心に響きそうな言葉”を事前に10個考え、暗記して店を広げた。


たくさんの方に書かせてもらえたほうが収入になる。けれども、11人以上来られたら困る。

「書きたいけど、書きたないな……」そんな葛藤を抱えながらのスタートだった。


「おもろそうやん」

「これ並んでんの?うちらも書いてもらおうで」

ある日、思いがけず行列が出来てしまった。書きながらちらりと見ると、「な……10人超えとる!」


もう、やるしかなかった。

その日11人目のお客様と向かい合い、じっと目を見つめる。緊張を収めるため、普段より深く深呼吸した。


「あ………」


その目が、書くべき言葉を教えてくれた。

自分でも驚くほど躊躇なくスラスラと筆を滑らせ、書き上げた言葉を朗読する。

次の方にも、その次の方にも。



その日僕は33人もの方に言葉を書かせていただいた。

言葉が出てこず困ることはなかった。そして、半数以上の方が涙を流してお礼を言ってくださった。



「てんつくマンにはできても、僕にはでけへんかも」

そんなふうに自分を縛っていたのは、自分自身だった。


そもそも、言葉を“自分で考える”“自分で出す”という姿勢こそが、自分を制限していたのだ。違う。自分の力で書くんじゃない。

自分も相手も超えた何かに委ねた時、自力ではとうてい考えられない力が働き、必要な言葉が湧いてくる。

てんつくマンはそれをしていただけなのだ。その“委ねること”は、僕にも、誰にでもできる事。


その後、言葉に困ることは一切なかった。企業からの依頼を頂いたり全国ツアーをしたり、と活動が広がっていった。

たくさんの出逢いや感動的な体験ができた。生涯のパートナーとも出逢えた。

ゴミ拾いの喜びを超えた、生きている実感。たましいを輝かせる日々。せや、僕は、こないして生きたかったんや………!!!


キッカケ④:無限の可能性を、仲間とともに。

そう、そんな活動のなかで、僕はその女性と出逢った。英語もできないのに音楽留学をし、自分の感性を信じて挑戦してきた彼女。

尊敬や憧れから始まった交際は、僕が僕自身を小さくとどめる思い込みに次から次へと気づかせてくれた。

そして、それらを手放すプロセスを彼女はずっと見守り、支えてくれた。



ある時のこと。人に勧められ、過去わずかでもイライラした人の名前をノートに挙げてゆくと、108人もの名前がそこに。まさしく煩悩の数!

しかも、そのひとつひとつのエピソードを事細かに覚えていたのだ。自分がこんなに執念深かったなんて。


怒りの多くは、人から見下された時、軽い扱いをされたと感じた時に抱いたものだった。

「人より優れていないと愛されない」

怒りの奥にあるそんな思い込みに初めて気づいた。


思えば、両親に心配を掛けたくない、愛されたいというおもいの裏返しだったのかもしれない。

目の障害で心配を掛けているぶん、人より優れていれば安心されて愛される。幼心にそんな事を思っていたのだろうか。

けれども、大学を出た僕は4ヶ月で会社を辞め、両親の望みとは正反対の人生を歩むことになった。

特に父親は僕の生き方にまったく理解を示すことなく、話も聴いてくれなかった。


「あなた、たくさんの仲間がいるじゃない。愛されてるじゃない」

「その仲間は、何かを成し遂げたから愛してくれるわけじゃないでしょ? 幸四郎が幸四郎のままで愛されている証拠よ」

彼女の言葉が沁みとおってゆく。人より優れていなくても、僕は僕のままで……。


自分の価値観に沿わない僕のことが理解できない父も、もしかすると、彼自身の狭い価値観に苦しんでいたのかもしれない。

父自身も、条件付きでしか愛されないと思い込んでいたのかもしれない。だからこそ、我が子に同じように接することしかできず……。

父への怒りが静かに解けてゆき、それ以降、父との関係が激変した。

環境も、人間関係も、自分の心と向き合い怒りや悲しみを手放すことで具体的に変化していったのだった。



人より優れていなくても関係なく愛されているという安心感が持てると、かえって挑戦したくなるもの。

それは、「挑戦しなければ愛されない」といった動機とは別次元の、爽やかな動機なのだ。


2015年には仲間の誘いで、1週間で250キロを完走する世界一過酷なマラソン、アタカマ砂漠マラソンに挑戦。

足を踏み出さなければそこがどうなっているかわからない僕は、数えきれないほど転んだ。足の皮の半分が剥けた。

チームメイトに支えられながらも、素直に感謝できない。「もっとちゃんとサポートしてよ」というおもいがどこかにある。

4日目でリタイア。これまでに抱いたことのない悔しさに打ちひしがれた。


「僕はこんなに大変なんや」

「こんなにかわいそうな僕やから助けてください」

そんなおもいに気づいた時、涙が出た。僕は長年そんな事を繰り返していたのか。

けれども一方で、僕のなかには「こんなもんじゃない、もっとやりたい!」というおもいもあったのだ。

障害を理由に同情を引き、自分の可能性を諦めようとしてきた自分に、もう一方の自分が悔しさを抱いたのだ。


「もう障害を言い訳にしたない!!!」こんな悔しさを抱いたことはない。その経験が財産だった。

その気づきともう一度挑戦したい気持ちをチームリーダーに伝え、翌2016年、アタカマ砂漠マラソン完走。

その様子はドキュメンタリー映画になり、視覚障害や様々な障害のある方、健常者の方にも、メッセージを届けることができた。



どんな人にも、無限の力がある。


確かに、 網膜色素変性症という病気を持って生まれた僕に、健常者と同じ視野を持つことはできないかもしれない。

けれども、その病気と視覚障害と共存しながら、自分らしい人生を切り拓いてゆくことはできる。

仲間の支えを得ながら世界一過酷なマラソンを完走することさえできるのだ。



夢も希望も、ひとりで叶えるものという決まりはない。ヒントやサポートを得ながら、大勢の仲間を巻き込んでいくらでも叶えれば好い。

助けてもらっているように見えて、そんな自分が相手の変化や気づきのキッカケになることなどいくらでもあるのだから。


自分のことがダメだ、自分を変えなければ、と思い込んでいる人に伝えたい。

僕も長年、ダメな自分を変えなければと思っていた。

心の声を無視して理屈を言い聞かせた結果、何がしたいのか、何を感じているのかもわからなくなっていた。

けれども、僕はたまたま営業という働き方に向いていなかっただけ。

向いている事を「やりたいな」という意欲に従って突き詰めれば、自分も相手もしあわせな状態で仕事も人生も進んでゆくのだ。


変えなければいけないのはダメな自分ではなく、ダメな自分を否定し変えようとする姿勢のほう。

自分を否定しているうちは、自分から遠ざかってゆく心の声など聞こえない。

心の声にしっかり耳を傾け、ダメな自分のままでもだいじょうぶだという安心感を得ること。

そんな状態で生まれた直感や意欲に対して、勇気を出して一歩踏み出そう。

そこから人生は拓けてゆくのだから。他人や社会の決めたしあわせではなく、自分らしいしあわせの形、人生の形が。


もしも……いつか人と同じ視野が手に入ったら、妻を連れて夜のドライブをして、星空を見に行きたい。

けれども、僕はこの視野、この視覚障害のままで、愛する妻と仲間というたくさんの星を日々見ている。

体の目には見えない星も、僕の心には輝いている。


「目の病気があるからこそ経験できる生き方」

昔、頭で受け止めたあの言葉。いまの僕には、肚の底から頷ける言葉になっている。



あなたにとっても、そんな日が必ず来ると信じている。

僕の掴んだKeyPageが、あなたの勇気になりますように……。

KeyPageミュージック:5%の光

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掲載日:2017年12月30日(土)

鍵人No.0066

石本幸四郎(いしもと こうしろう)

1974年、福井県生まれ、大阪育ち。 網膜色素変性症という先天性の病気のため、健常者の視野の95パーセント以上が欠ける視覚障害を持つ。大学卒業後就職、紆余曲折を経て、2010年、「あなたの目を見てインスピレーションで言葉を書きます」というアートパフォーマンス活動を開始。2015年から2度、アタカマ砂漠マラソンに挑戦、2016年に完走。2017年に絵本作家に転身。手作りの絵本を4ヶ月強で1万冊販売。

ブログ:https://ameblo.jp/kotodama-koshiro/

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