1982年2月25日京都にて僕は生まれた。
母は現代舞踊とバレエを教える講師をしており、僕はその母の教室に幼少から通っていた。父は仕事の関係で、芸能人やアーティストとの交流も深く、舞台・踊り・歌・政治や経済など、幅広いサブカルチャーや知識を持っていた。そんな父の影響で、ありとあらゆる刺激の機会を与えてもらい、そんな中で育ったからなのか…小学生の頃のあだ名は“変態”だった。
実際人前でものまねをしたり、目立ったりするのは好きで物怖じしない方だったが、ダンスに対しては全くやる気がなく、男でダンスっていうのがどうにも恥ずかしく、積極的に取り組むことはできなかった。
しかし、中学生くらいになってくると体も大きくなり、筋肉量に関わる回転とかジャンプなど、女の子よりも踊れるようになって、ダンスの楽しさが少し分かり始めたと同時に、調子に乗り始めていた。
「これは…もっと頑張れば誰よりもうまくなるんちゃうか…?!」
いつか辞めたいと思っていたダンスをどんどん好きになり、もっと色んなことを学び、本格的にダンスの世界へと足を踏み込んでいった。
中学生や高校生になると、クラシックバレエの国際コンクールなどでよく金賞を取っていた先生のスクールに通い、更にレッスンに励んだ。腹筋する僕の上でジャンプしたり、腕立てをしながら逆立ちしている時にお腹を殴ってくるなど、とてもスパルタな先生だったが、ダンス以外にも礼儀や人として大事なことを学ぶキッカケでもあった。
そんなある日、先生からこんなことを言われた…
「とにかく自分が下手やということを知れ。プライドを捨て、ゼロからどうしていくべきかを考えなあかん!」
調子に乗っていた自分には正直辛い宣告だった。しかし同時に、自分の力のなさを受け入れる努力が必要なことも知った。
そうやって無我夢中でダンスに食らいついたかいもあり、18歳の時にはダンスの仕事をもらえるようになっていた。とはいえ、家賃を払うことで精一杯の稼ぎ…。夜の9時から朝の9時までバイトして、10時からレッスン。12時からリハーサルをし、夕方の17時頃に帰宅。3時間ぐらい寝て、またバイト…
毎日睡眠不足で過酷な日々を送っていた。
ただ、夢を持って頑張っているのは僕だけじゃないと体に鞭打ち、励まし、なんとか頑張っていた。頑張るしかなかった。
それから1年、努力が実り、それなりの生活ができるくらい稼げるようになった。
しかしなぜか満足することができなかった。クラシックバレエはもちろん大好きだし尊敬している人もいる。でも自分にしかできない、可能性を秘めている別のジャンルに挑戦したいと思っていた。
「ダンサーや振り付け師も多く、現代舞踊のレベルも高い東京なら…!」
思い立ったが吉日、京都を飛び出していた。僕にはもうダンスしかなかった。
「きっと大丈夫やろ。うまくいかへんかったらいかへんかったでその時考えればいい!」
掲載日:2017年03月10日(金)
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