上京して初めて生んだ家は、家賃2万6千円の風呂なしアパートだった。
親からの仕送りがあるわけでもなく、いつも食事はカップラーメン。タオルで体を拭いて汚れを落とす生活だった。踊りでの仕事に就くのもまたゼロからだったが、とにかくがむしゃらに頑張っていこうという決意は固かった。多少の苦労は覚悟している。
23歳を越えたくらいの頃から、コンクールで上位になったり、ダンサーとして活躍する場も増え、風呂付きの部屋に住むことができたりと、自分がやってきたことに対して目に見える成果がでた。文化庁の“新進芸術家国内研修員制度”の奨学金も取得し、そのお金でありとあらゆる舞台を観に行った。とにかく勉強に励む毎日だった。
『自分が下手だということを知れ』
あの時の師の言葉があったから、僕は妥協や満足をすることをやめ、向上心を持ち続けることができたのだろう。そんな中でずっと心に秘めていたことがあった。それは“自分にしかできない表現で世に立つ”こと。一番になんてなれなくたって良い。ただ、自分にしかできない表現で、現代舞踊をもっと面白くしたいと強く思った。
そう思い取り組んだ結果、選抜新人舞踊公演で新人賞を受賞することができた。
評価の理由は作品「モザイク紳士」においての“独自性豊かな表現”に対して。
自分が吐き出したいものを形にした時に認められたこの瞬間…物凄く嬉しかった。
上京してから通っていたスタジオの先生は、今でも僕の師である折田克子という現代舞踊家の方で、踊りの世界では実力を認められ、知名度もある…まさに天才。芸術肌で、生徒の意見を尊重し、やりたいようにやらせてくれた。とにかく生徒の表現したいものを否定せず、結果がどうであれ認めてくれる方だった。
舞台の上に立って1人で闘う方法や孤独と向き合う方法を教えてもらった。
そうして自立したダンサーが周りと力を合わせた時、大きな感動を呼び起こすことができるのではないか。と僕は強く思った。新人賞を取ってからは、自分の表現というものが実を結び、世の中から注目され、期待されるようになった。
ただ、ここでも葛藤はあった。どうして“変態”と呼ばれてしまうのか?複雑だった。
僕はただ自分の表現したいことをそのままやっているだけで、逆に僕からしてみれば、周りの皆が同じすぎて気持ち悪い。皆一皮剥けば自分の表現をしっかり持っている別の個体なのに、決められたルールの中に納まり、自分と違うものに対して偏見の目で見たりする。僕が追い求めているのは自由な作品と互いに認め合える信頼だ。
「変わっているのは僕じゃない!個性を表現しているだけなのに。」
そういった反骨精神から、新たに自分の作品を作るために、皆と同じ土俵に立ってみようとも思った。自分自身の進展のためにも、今までの自分の得意なものに頼らず、感性をなくしてみたりもした。何が正しいとかではなく、色々試した上で、やっぱり自分自身を表現していくことは大事だと。改めて思うキッカケになった。
掲載日:2017年03月10日(金)
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